第10話

「リ──リテイク! 十回!!」


 ベッドの上に仰向けに寝転がった李藍レイ・ランがギャハハと声を上げて笑っている。李藍と馮情フェン・チンがふたりで生活している俳優寮の一室に招かれた二式は「笑いすぎや!」と大声を上げる。


「そらまあ多少は……覚悟しとったけど……」

「してたけどぉ?」

「別に撮り直しの理由は僕やないかもしれんやろ! 藍!」

「確かに俺の出演シーンでもあったよ? けどチャン先生は『阿二!』『阿二!』って何度も何度も……」

「うう……」


 それを言われると弱い。カットがかかる度に陳監督と助手たちの短い打ち合わせが行われ、『葛原二式』と名札の付いた椅子に腰掛けて待機している二式を通訳のカクが困り果てた様子で振り返る──というやり取りを十回。十回繰り返したのだ。

 今回が殺陣を含む撮影でなくて良かったと心底思う。李藍と馮情の一騎討ちを見学させてもらって良かった、と二式は今更ながら噛み締めていた。台本によると二式はひとり対数名の戦いを二度、それから李藍を含むエキストラたちとの戦いを一度、更には皓空ホウフンとの一騎討ちを二度行った後、ラストシーン──皓空ホウフンとの共闘、相手は百名規模というめちゃくちゃな戦闘を行い、命を落とすという流れになっている。


(ほんまに死ぬど)


 どれもこれも一度の撮影で済むとは思えなかった。二式は未だ二十二歳。セリフを言いながらでも体は動く方だと自惚れていた。しかし藍とともにジョギングをし、今日、武器を使わない場面の撮影を十回連続で行い、その認識が甘かったことを思い知らされた。


「阿藍」

「なに? 二式生(二式さん)」

「明日からジョギング……僕も……」

「おっ、やっとやる気になってきたな! よしよし、哥哥お兄さんが付き合ってあげよう」

「誰が哥哥お兄さんだよ……」


 言い合いの隙間を縫うようにして、ドアをノックする音が聞こえた。「はぁい、おかえり」と藍が明るい声で応じる。


「ただいま」


 数冊の台本を小脇に抱えた馮情フェン・チンが部屋に入ってきた。ソファに座る二式を見ても、驚いた顔ひとつしない。それどころか、


「あっリテイク十回……」

「情まで言うんか!」

「最後まで見学していたわけじゃないが、今、撮影所中の噂になってる」

「この……クソが……!!」


 握った拳がブルブルと震える。悔しい。癪に障る。そしてそれ以上に、奇妙な満足感が二式の体を包んでいる。葛原二式は、姚神狐ヤオシャンフー有限公司に招かれ、いちばん初め、たった一度の撮影で十回の撮り直しを行った。手間をかけられたことに対して嫌な顔をしている者は、少なくともチャン監督、それに現場スタッフの中にはいなかったと思う。郭には同情されていたようだが、それは彼女の優しさだ。


 葛原二式は最早客人ではない。海を越えて映画を作りにやってきたひとりの俳優だ。


「僕はな、明日からジョギング! 体力作りするんや! 情も走ろうで!」

「お誘いは嬉しいが、明日は早朝から撮影がある。ので、俺はもう寝る」

「そうなん? 忙しいんやな」

チャン先生が二式に付きっきりだから、ドミニク先生が他の現場を仕切ってるんだ。本当に忙しい」

「どこの国でも似たようなもんなんやな……僕も日本では一気に三つの現場を掛け持ちしたりするで」


 二式と藍が目の前にいることを気にする様子もなく下着一枚の姿になった情が「勝った」と短く言い、


「俺、明日は五本」

「あらま。ほんとに忙しいじゃん阿情〜」

「朝からドミニク先生と二本、それからワン先生の第五撮影所、それから第一撮影所でもう一回ドミニク先生に会って、夕方には第三撮影所に戻る予定。無事を祈っててくれ」

「ひええ〜」

「が、頑張ってな……」


 淡々と言い置いてバスルームに消えて行く情の広い背中を見送り、


「五本かぁ。大部屋時代には結構あったけどなぁ」

「大房間?(大きい部屋?)」

「えっと、こっちで言う額外(エキストラ)かな? 役名がなくて、色んな映画に駆り出される。色んな役やったで。悪人も、善人も」


 言葉を選んで説明する二式を見詰めながら、「阿二にもそういう時代があったのかぁ」と藍はしぱしぱとまばたきをする。


「ちょっと意外」

「そうか? こう見えて結構頑張り屋さんやで」

「なんか、スカウトとかされて俳優になったんだと思ってた」

「そういう感じの同僚もおるけどね。けど、前に皓空ホウフン明花ミン・ファは俳優一家の子やって話を聞いて思い出したんやけど、日本にも多いわ、親兄弟全部役者って人」


 映画に出演するまでは大衆演劇の俳優として自分の劇団を率いていた役者。その妻と子。もしくは歌舞伎俳優であった者。その息子。ファッションモデルとして雑誌に写真が掲載され、それを見た映画製作会社の人間からスカウトを受けて俳優に転身した者も少なくない。葛原二式はそのどれにも当てはまらない。陽光映画製作会社の新人俳優オーディションを受け、期待の新人として抜擢されるルートからは見事に弾かれた。だが役名のない大部屋俳優としてなら所属させてやるし給金も出るという製作会社の人間の言葉に縋り付くようにして陽映に残り、回される仕事は全部受けた。


「で、どうやって今の阿二になったわけ?」

「それは……」


 別に隠すようなことではない。説明を続けようと口を開いた二式の言葉を遮るようなタイミングで、俳優寮のドアを乱暴に叩く音がした。情が戻ってきてからは扉には鍵をかけている。藍と二式は一瞬視線を交わし、


「……はいはい〜。こんな夜中にどちら様?」

「系我(俺だ)」

「!」


 その場で小さく飛び上がった藍が、あたふたと鍵を開け、扉を内側に引く。

 薄暗い廊下には、灰色のスーツ姿の皓空ホウフンが立っていた。


「部屋を訪ねたら誰もいなかった。あの通訳も、こっちの……リテイク十回男も」

「あはは! そういえば空哥フンゴーは最後まで現場にいた……んでしたっけ?」

「いや、八回目で外した。俺も暇じゃない」


 こんな風に皓空ホウフンが突然現れるのは、初日、陳監督との会食現場以来だ。あの時の彼は泥酔していたが、今は違う。煙草の匂いはするものの、アルコールの気配はまったくない。


「リテイク十回男ってなんや、失礼やぞ」

「事実だろう。デビューしたばかりの新人でもあんなにフィルムを無駄にしない」

「僕は香港映画初めてなんやからしゃあないやろ! それに聞いたで、この会社の社長さんはあかんフィルムは全部焼いてしまうんやろ? せっかく日本から俳優を呼んだのにそんなんなったら困るやんけ!」

「……余計なことを、良く知ってるな」


 自身のベッドから立ち上がった藍が「どうぞ」と皓空ホウフンに場所を譲る。長身を投げ出すように白いシーツの上に腰を下ろした皓空ホウフンがふところから煙草の箱を取り出し、


「吸うか?」

「ありがとう、空哥フンゴー。でも俺は遠慮しておきます」

「僕はもらう」

「あ?」


 吸わないんじゃなかったのか、と皓空ホウフンの顔に大きく書かれているが、二式の知ったことではない。日常的に喫煙をしていないだけで、一度も煙草を吸ったことがないわけではない。

 紙巻きを咥え、皓空ホウフンが擦ってくれた燐寸マッチから火を受け取る。久しぶりの苦い味わいに、思わず鼻の上に皺を寄せてしまう。


「無理して吸うものじゃない」

「無理はしとらん。それより皓空ホウフン、何しに来たんや。僕らもう寝るところやで」

「……おまえも? この部屋で?」

「っそ……それは……」


 十回のリテイクを終え、撮影所から解放されても尚逢坂は戻ってこなかった。それで、不審と心配が入り混じったような表情になった通訳の郭が、「逢坂先生が戻ってくるまで阿藍の部屋で待たせてもらうのはどうか」と言ってくれたのだ。


「部屋にはおらんかったんか、逢坂さん」

「ああ。ノックをしても応答がなかったし、おまえたちの部屋は寮の四階にあるが──外から見上げた時も部屋の中は真っ暗だった」

「そうなんか……」


 どこへ、何をしに、ひとりで。


 逢坂は信用したい気持ちはある。香港でただひとり、顔と名前が一致している、広東語と日本語を見事に操る同伴者だ。だが彼は、おそらく堅気の人間ではない。三会會Triadとかいう得体の知れない組織と通じている。


三会會Triad


 煙を吐きながら、皓空ホウフンが唐突に言う。藍が大きく咳き込む音が聞こえた。二式もまた、両目を大きく見開いている。

「率直に訊く。あの男、三会會Triadの人間か?」

「あの男……逢坂さんの、ことか?」

「他にいねえだろう」


 皓空ホウフンは苛立っていない。二式は、本当のところを言うと焦っている。

 なぜ皓空ホウフンは逢坂が三会會Triadの人間だと思い込んでいるのか。根拠があるのか。二式の知らない──何か、理由が、あるのか。逢坂おうさか一威かずいという男には。


「葛原二式」


 皓空ホウフンの左手がサッと伸びて何かを掴む。二式が右手に持ったままの煙草が、早くも燃え尽きようとしていた。銀色の灰皿で煙草を受け止めた皓空ホウフンが、


「あの男は」


 と低く言う。


「今朝、警察官にこう言った」


「春天」


「鬼(グゥワイ)」


 何を言われているのかまるで分からず途方に暮れている二式の肩の向こうから「うわっ!?」と大声が響いた。情だ。


空哥フンゴー? 何してるんですか!?」

「パンツ履け阿情アーチン。今、面倒な話をしているんだよ」

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