第11話

 早寝をすると言い張っていた馮情フェン・チンも、会話に加わらないわけにはいかなくなった。正確には彼は寝巻きを着て自分のベッドに横たわったのだが、


「こっちはこっちで喋っているが、おまえは勝手に眠れ」


 と皓空ホウフンに言われ、「無理です……」と蚊の鳴くような声で応じ、今も目を開けたままで話に耳を傾けているというのが現状だった。


オニって何や。日本にもおるけど、こういう、ツノが生えた」

「それじゃない」


 両手の人差し指でツノを模して見せる二式に、皓空ホウフンが平坦な声で応じる。


「俺たちにとってのグゥワイはもっと身近で──恐ろしいものだ」

「遠回しな言い方やめてんか。もっと率直に言うてくれ。結局のところ、なんなん? 日本のと、香港のグゥワイはどこがどう別物なん?」


 皓空ホウフンが唐突に日本語を発した。少しばかり聞き慣れないアクセントではあったが、確かに彼は「」と発音した。


空哥フンゴー、えっ、今、日本語……」


 呆気に取られた様子の藍に、


「この日本人と仕事をすると決まった時に、郭女士に幾つか日本語を教えてもらった。メモを貰ったんだ。別にこいつのためじゃない。俺が便利に感じるからこれを参考にしているだけだ」


 と、しれっとした表情の皓空ホウフンは上着のポケットから小さく折り畳んだ紙を取り出して言った。


「で、葛原二式。俺の言葉は伝わったか」

「お、おん……幽霊ユーレイ、おばけのことか」

「おばけ? は俺には分からないが……俺たちが死んだ人間のことを、グゥワイと呼ぶことがある」


 つまり要するにおばけか、と思いながらも、二式は皓空ホウフンの言葉を遮らない。彼はまだ本題に触れていない。


「この撮影所にはグゥワイが出る」

空哥フンゴー!?」

「阿藍、こいつには伏せるような話じゃねえと俺は判断した。口を挟むな」

「で、でも……」


 焦りに焦った様子でソファから立ち上がったり座ったりを繰り返している様子の藍を、二式は振り返らない。ベッドに腰を下ろしている、皓空ホウフンだけを見据えている。皓空ホウフンも同様に、長いまつ毛に縁取られた眼で真っ直ぐに二式を睨み据えている。


「その鬼……日本語で言う幽霊の正体は……二十年前に殺された女性?」

「意外と察しがいいな」


 薄い口の端を歪めるようにして、皓空ホウフンが笑う。


「名は劉紅花リウ・ホンファ。年齢は二十二歳だったと聞く」

皓空ホウフンのお母さんが、妹みたいに可愛がってたっていう」

「ああ? なんでそんなこと……てめえ、あの時ちょっと話したことをきちんと覚えてやがる。気持ち悪いな、忘れろよ」

「そっちが勝手に色々話してきたんやろ! ……それで、その」

「ああそうだ」


 姚神狐ヤオシャンフー有限公司が所持する撮影所、EGG STUDIO。その封鎖された第五撮影所には、二十年前に殺害された俳優──劉紅花リウ・ホンファ幽霊が未だに姿を現すのだという。


「その、間違いなく劉紅花リウ・ホンファって人の幽霊やっていう証拠は……誰かが目撃したとか、写真を撮ったとか」

「そこまでははっきりはしねえが……そもそも、第五撮影所自体がもう二十年間立ち入り禁止状態で、中に入るやつはほとんどいねえからな」


 反復する二式をいかにも嫌そうな目で見上げた皓空ホウフンは新しい煙草に火を点け、


「てめえなんぞにこの話をしようと思った俺が阿呆だったかもしれねえな」

「何やその言い方。僕の察しが良くて助かるって話やろ。ほとんど、って言うたな。誰や。ほとんどに該当するんはいったいどこのどちら様や。誰が、その封鎖された撮影所に勝手に入り込んで幽霊を見たんや」

「誰ってこともねえさ。俳優、スタッフ、それに

「観光客?」


 想定外の言葉にきょとんとして首を傾げる二式に、


「ええっと……うちの会社は観光名所としても有名でね。撮影所内でも一箇所だけ、第二撮影所だけは国内外からの観光客のために解放されてるんだよ」


 と藍が注釈を入れる。


「とは言ってもうちの会社と提携してる旅行会社が組んだツアーの一環でしか入ることはできないし……問題の第五スタジオは二階にあるから、そう簡単には入れないはずなんだけど……」

「カネだよ、カネ」


 皓空ホウフンが放り投げるように言い、「ですよねぇ」と藍が困り果てた様子で眉を下げる。


「警備員にカネを握らせて、こう……な?」

「な? って言われても僕にはよう分からんわ。なんで幽霊が出る撮影所に入りたいと思うんよ」


 問い掛けに対し、皓空ホウフンが一冊の古びた雑誌を投げて寄越す。彼がそんなものを抱えていたということにも、二式は気付いていなかった。

 表紙の色褪せた、しかし保存状態の良い雑誌だった。二十年前の──映画専門雑誌。現在で言うところのアイドル雑誌とでも言えば分かりやすいだろうか。表紙には爽やかな笑顔を浮かべる柄シャツ姿の男性と、白いワンピースに身を包んだ若い女性。ぺらぺらとページを捲って進んでいくと──


「……劉紅花リウ・ホンファ


 皓空ホウフンの声がなくても、すぐに分かった。美しい女性だった。美しいのひと言では片付かないほどに魅力的で、健康的な色気を放つ、爽やかで、こういう女性のことをいったい何に喩えれば良いのだろう。蝶よりも花よりも麗しく、高い青空よりも強い包容力に溢れていて、それで、そう、それなのに。

 彼女はもうこの世にいない。


「綺麗だろう」


 二式には、黙って頷くことしかできなかった。


「家族で香港に渡ってきて、うちの会社に所属することになって。最初に表に出たのがその雑誌だと、俺も母から聞いた」

「お母さんから……」

「だが、動いて喋る紅花姐姐(姉さん)の映像は残されていない」

「映画の製作が始まる前に……殺されてしまった、から?」

「ああ」


 生きていれば四十代半ば。きっと、現在の姚神狐ヤオシャンフー有限公司を牽引するベテラン俳優のひとりとなっていただろう。


「この……紅花ホンファさんに会いたくて、勝手に撮影所に入る人間がおるってこと?」

「そうとしか考えられん。葬儀を終えた後第五撮影所には祈祷師に入ってもらい、すべてのセットを撤去した後幾つものお札が貼られている──というのはまあ、俺も母親から聞いた話で、実際に見たわけじゃねえが……」

「……」


 逢坂が──今どこで何をしているのかが分からない逢坂一威が。警察官に囁いた言葉のうちのひとつ、「グゥワイ」の意味は理解できた気がする。彼は二式にも「他の仕事」として「」と述べていた。警察官たちがどういった通報を受けて逢坂、そして二式の身柄を取り押さえようとしたのかは今もって謎だが、「グゥワイ」のひと言で二十年前の出来事を想起させることができる程度には有名な、皆が知る事件だった──過去形ではない、未解決の事件なのだ。


「てめえのスカスカな脳味噌でも理解できたか? リテイク十回」

「やかましわ。おまえとの共演シーンでは一発OK出したるからなこんクソが」

「ああ?」

「なんや? 喧嘩売ったんはそっちやぞ?」

「まあまあまあまあ!」


 二式の背中の向こうから大声が響いた。睡眠を妨害され続けている馮馬フェン・チンだ。


「空哥も阿二も……大事な話はそれだけじゃないでしょう」

「阿馬、おまえ寝なくて大丈夫なのか?」

「空哥と阿二が大声を出しているあいだは眠れません!」

「てめえ。おい、俺の後輩が困ってるだろうが」

「だからなんで全部僕の責任になるんや。こんな時間に乗り込んできたんはそっちやろ!」


 次に声を上げたのは、李藍だった。


「……ってどういう意味ですか、空哥」

「ああ」


 灰皿に煙草をねじ込み、皓空ホウフンが頷く。


「声が聞こえたわけじゃねえ。だが、くちびるの動きから察するに『春天』と『グゥワイ』──逢坂あいつは確かにそう言った」

「春天っていうんは……?」

「普通に考えれば季節の『春』だ。日本語の『』」

「普通に考えなかった場合は?」


 無精髭の浮いた顎を撫でながら、皓空ホウフンがすっと目線を逸らす。


「……三会會Triad


 ──できれば、耳にしたくない響きだった。


「そういう名前のめちゃくちゃ大きな組織が存在するって話だけは、逢坂さんから聞いたけど」


 二式の言葉に、皓空ホウフンが小さく首を縦に振る。


「たとえば葛原二式、おまえたちの国には黑幫ハッポンがいるよな?」

「……何て?」

「ああ……ヤクザ、だ」


 郭からもらったという紙を見ながら、皓空ホウフンが訂正する。「おるね」と肯定した二式に、


「国中にいったい幾つの組織があるか、てめえ把握してるか?」

「ええ……? そんなん急に言われてもなぁ。僕、ただの役者やし」

「ただの役者でも、ヤクザと繋がりを持っている人間はいるだろう」

「それは……」


 皓空ホウフンの言葉は間違っていない。俳優にも、それに映画製作会社に所属している者にも、ヤクザと個人的な交流を持ち、その交流を仕事に活かす者は少なからず存在している。


三会會Triadはな、


 断言され、決して広くはない部屋に嫌な沈黙が落ちた。藍の顔色が見るからに悪くなり、情は布団の中に頭ごともぐり込もうとしている。


「ひ……ひと、つ?」


 絞り出すように尋ねた。皓空ホウフンは黙って首肯した。


。所属人数は分からない。一応は香港を拠点としているが、活動範囲は全世界。もちろんてめえの国、日本にも三会會の人間は潜んでいる」

「ちょっと……急すぎる……」

「春天というのは」


 皓空ホウフンの大きな目が、二式を静かに射抜いた。


「誰も顔を見たことがないと評判の、

「は──」


 返す言葉が見当たらない。

 それは、つまり、どういう。

 警察官たちを「春天」のただひと言で追い返してしまった逢坂一威はいったい。

 そして鬼。

 幽霊と三会會。


「葛原二式」


 皓空ホウフンが呼ぶ。


「てめえの心配をしているわけじゃねえ。ただ、てめえの通訳は、あまり信用できる人間じゃない」

「……」

「今後通訳はすべて郭女士に頼め。部屋は移動しろ」

「ど、どこに」


 まだ香港に辿り着いて三日──頼れる人間は、逢坂以外に心当たりがない。


「俺の家に来ればいい」

「はあ!?」

「あ、そういえば」


 布団の中からぼそぼそと馮情の声がした。


「哥哥は寮住まいじゃなかったですもんね……」

「ああ。日本人ひとり隠しておくぐらいの部屋はある」


 そういうことになった。

 なってしまった。

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