第12話
彼の名は
そんな一族が生活する家で、ゆったりと寛げるはずがなかった。
「二式生!(二式さん!)」
出迎えてくれたのは
「あさごはん」
と日本語で言い、二式の腕を引っ張った。おそらく郭が
「早晨! 你早上慢跑嗎?(おはよう! 朝からジョギングかい?)」
朝食の席には既に、
「早晨、えーっと……」
広東語で応じてしまえば良いと思いつつも、
「二式、さん? 私、少し、日本語が分かる」
「えっ」
口を開いたのは、
「むかし日本で、撮影をした。懐かしいね」
「昔……そうですか。いつかぜひ、その映画を拝見したいです」
「ごはん、しっかり食べて。
名を呼ばれた
朝食の席では主に
「不好,好差(あれは良くない、悪いことだ)」
黒縁の
「はい……私もできるだけ、香港の皆さんと良い映画を作りたいと思っているのですが……」
と返答の方向性を変える。妻の翻訳を耳にした
「你係個好人。 等我哋最終共同努力。(あなたは良い人間だ、いずれ一緒に仕事をしましょう)」
──朝食の席は、比較的良い雰囲気で終えることができた。
「我想讓阿二作為嘉賓出現(阿二をゲストで出演させたいな)」
「陳老師會鬧你,爸爸(陳先生に怒られますよ、お父さん)」
穏やかに言葉を交わしながら撮影所に向かう父と息子に続いて撮影所に入る二式の肩を、
「阿二、がんばって」
「ありがとうございます、
「
「よう、葛原二式」
まずは誰に声をかけて良いのか分からない二式の首根っこを、ぎゅっと掴んだ者がいた。振り向かなくても声で分かる。
「逢坂さん!」
「俳優寮の部屋にもいないし、ホテルを取った形跡もない。いったいどこに雲隠れしてたんだ?」
「そ、それはこっちの台詞や! 昨日は撮影中もずっとおらんで……通訳の郭さんに大迷惑かけたんやで!!」
「俺は俺の仕事をしてたの。それに、郭さんに迷惑っていうけど彼女だって日本人相手の通訳が本業だろ。ああ、まあ日本人に限らないかもしれないが……」
「うるせっ……もうあんたのことは頼らんて決めたんや! 離せや!!」
言い合う二式と逢坂の姿を、出演者やスタッフたちが遠巻きに眺めている。日本からやって来たたったふたりがこんな風に大声を上げてやり取りをしていては、確かに空気も悪くなるだろう。逢坂の手をようやく振り払った二式は肩で息をしながら、
「とにかく……もう、なんも知らん僕やないからな」
「……へえ? つまり?」
「と、とらいあ──」
「おおっと」
「その言葉は、あんまり大きな声で言わない方がいい」
「なに、言うて……」
「ところで二式、噂の郭さんはどこにいるんだ?」
「え?」
そういえば──昨日は、撮影所に入った途端「阿二!」と声をかけながら駆け寄ってきてくれたというのに。
「郭さん……?」
「嫌な予感がするなぁ」
「は?」
「もしかしたら、第五撮影所にいるんじゃないかな?」
「……はあ!?」
封鎖されている第五撮影所。
「郭さんはまともな人や、封鎖されとる撮影所なんかに行くはずが」
「まともな人間から狂っていくのが、この
「適当言うなや、この……!!」
「──陳先生、陳先生!!」
第三撮影所の扉が大きく開かれる。立っているのは助監督のドミニク・
見るからに青褪めた彼は突然の大声に呆気に取られる俳優やスタッフを掻き分けて、台本のチェックをしていた陳監督の耳元に何事かを囁く。
「おい、葛原二式」
「
「親父の映画にはゲスト出演程度と決まっている。……ああ逢坂先生、今日はあんたもいるのか」
「……阿二」
ドミニク・
「郭女士(郭さんが)」
「……通訳の郭さんが?」
逢坂が太い眉を跳ね上げる。
「郭先生出事了(郭さんが事故に遭った)」
「事故に遭った……?」
「は……!? なんで!? 事故!?」
裏返った声を上げる二式を沈痛な面持ちで見詰めながら、陳監督は静かな口調で続ける。
「二樓嘅拍攝室似乎出咗乜嘢事(二階にある撮影所の中で何かがあったらしい)」
「二階にある撮影所で……何かがあったって言ってるぞ、おい」
「……第五撮影所」
長いまつ毛をゆっくりと揺らしながら呟く
「不要說太多(余計なことを言うんじゃない)」
逢坂が翻訳をしなくても、郭が傍にいなくても、二式には広東語が理解できてしまう。
「點都好,我要開槍咗。 逢坂先生,請翻譯(とにかく、撮影を行います。逢坂先生、翻訳をお願いします)」
「我理解(わかりました)」
そうして始まる撮影に集中できるはずもなかったが、二式はほとんどミスを犯さなかった。多くても同じシーンを三度撮影するだけでOKが出た。二式はずっと、
やがて──夕刻。
通訳担当者、
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