第12話

 彼の名は魈皓空シウ・ホウフン。俳優としての芸名だ。本名は呉弓空ン・ゴンフンという。妹の名は呉玥ン・ユエ。俳優としての芸名は明花ミン・ファ。父親は呉浩然ン・ハオラン、映画監督である。以前は中国大陸で活動をしていたが、香港で名作を連発し始めた姚神狐ヤオシャンフー有限公司に興味を抱いて家族で移住してきた男性だ。そして皓空ホウフンの母親は薇夢メイ・モン。香港に移住してきた当時は美貌の若手俳優として、現在は女帝役から体術で男たちを蹴散らす女傑役までありとあらゆる役柄をこなすベテラン俳優として人気を集めている。


 そんな一族が生活する家で、ゆったりと寛げるはずがなかった。


 皓空ホウフンのマネージャーが運転するクルマで邸宅──便宜上呉邸と称する──に辿り着いた頃には、既に時刻は午前零時を過ぎていた。「ここで寝ろ」と放り込まれた客室には幸いにもシャワーが備え付けられていたため、体を洗い、それからむやみに広いベッドに横たわって寝た。あっという間に意識を失い、気が付くと午前六時だった。というのも、昨晩の与太話を覚えていてくれた李藍レイ・ランがわざわざジョギングのために呉邸まで二式を迎えにきてくれたのだ。小一時間あちこちを走り回り、李藍は更に走って俳優寮に、二式は呉邸へと戻った。


「二式生!(二式さん!)」


 出迎えてくれたのは明花ミン・ファ──呉玥ン・ユエだ。「早晨(おはようございます)」と応じた二式はにこりと笑顔を浮かべ、それから人差し指をくちびるの前に立てる。広東語が喋れるということは、今はまだ伏せておきたい。すぐに察してくれたらしい呉玥ン・ユエは、


「あさごはん」


 と日本語で言い、二式の腕を引っ張った。おそらく郭が皓空ホウフンのために作った日本語メモを、彼女も見たのだろう。


「早晨! 你早上慢跑嗎?(おはよう! 朝からジョギングかい?)」


 朝食の席には既に、呉玥ン・ユエと二式を除く家族全員が揃っていた。声をかけてくれたのは呉玥ン・ユエ皓空ホウフンの父親であり映画監督の呉浩然ン・ハオランで──


「早晨、えーっと……」


 広東語で応じてしまえば良いと思いつつも、皓空ホウフンが隠れ家として自身の実家を提供してくれた真意が分からない以上気を抜くわけにはいかず、愛想笑いを浮かべて二式は沈黙する。


「二式、さん? 私、少し、日本語が分かる」

「えっ」


 口を開いたのは、呉浩然ン・ハオランの傍らに座っている女性だ。薇夢メイ・モン。俳優であり、呉浩然ン・ハオランの妻であり、皓空ホウフン呉玥ン・ユエ兄妹の母親でもある女性。呆気に取られる二式を見てコロコロと笑った薇夢メイ・モンは、


「むかし日本で、撮影をした。懐かしいね」

「昔……そうですか。いつかぜひ、その映画を拝見したいです」

「ごはん、しっかり食べて。皓空ホウフン! 善待呢個人?(優しくするのよ?)」


 名を呼ばれた皓空ホウフンは母の言葉などどこ吹く風といった表情で、目の前のおかゆをかき込んでいる。

 朝食の席では主に呉浩然ン・ハオランに色々と質問をされ、薇夢メイ・モンが柔らかな日本語でそれを通訳した。二式はできるだけ丁寧に問いかけに応じ、香港に到着した翌日にホテルの壁と撮影所の扉に書かれていた例の落書き──『禁止狗、貓或葛原二式』(「犬、猫、葛原二式お断り」)──について呉一家が既に認識していることを知った。


「不好,好差(あれは良くない、悪いことだ)」


 黒縁の呉浩然ン・ハオランが顔を顰めて、いかにも苦々しげに言う。「気にしてないですよ」と返そうとした二式はふと皓空ホウフンの目配せを受け、


「はい……私もできるだけ、香港の皆さんと良い映画を作りたいと思っているのですが……」


 と返答の方向性を変える。妻の翻訳を耳にした呉浩然ン・ハオランは息子たちにあまり似ていない丸顔にニコッと笑みを浮かべ、


「你係個好人。 等我哋最終共同努力。(あなたは良い人間だ、いずれ一緒に仕事をしましょう)」


 ──朝食の席は、比較的良い雰囲気で終えることができた。


 呉浩然ン・ハオラン薇夢メイ・モン、それに呉玥ン・ユエ──ではなく俳優の明花ミン・ファが一台のクルマに。それから魈皓空シウ・ホウフンと葛原二式がもう一台のクルマに別れて乗り、EGG STUDIOに向かった。聞けば、呉浩然ン・ハオランも現在三本の新作を掛け持ちで撮影中なのだという。魈皓空シウ・ホウフン明花ミン・ファも当然出演者として参加している。


「我想讓阿二作為嘉賓出現(阿二をゲストで出演させたいな)」

「陳老師會鬧你,爸爸(陳先生に怒られますよ、お父さん)」


 穏やかに言葉を交わしながら撮影所に向かう父と息子に続いて撮影所に入る二式の肩を、薇夢メイ・モンがトントンと叩く。


「阿二、がんばって」

「ありがとうございます、太太奥様


 薇夢メイ・モンは第一撮影所に、残りの呉一族は第二撮影所へと去って行く。別れる直前「俺はすぐ第三撮影所に移動する」と皓空ホウフンに耳打ちをされ、二式は黙って頷いた。二式の仕事場は、どうあっても第三撮影所なのだ。


早晨おはようございます、あー……」

「よう、葛原二式」


 まずは誰に声をかけて良いのか分からない二式の首根っこを、ぎゅっと掴んだ者がいた。振り向かなくても声で分かる。


「逢坂さん!」

「俳優寮の部屋にもいないし、ホテルを取った形跡もない。いったいどこに雲隠れしてたんだ?」

「そ、それはこっちの台詞や! 昨日は撮影中もずっとおらんで……通訳の郭さんに大迷惑かけたんやで!!」

「俺は俺の仕事をしてたの。それに、郭さんに迷惑っていうけど彼女だって日本人相手の通訳が本業だろ。ああ、まあ日本人に限らないかもしれないが……」

「うるせっ……もうあんたのことは頼らんて決めたんや! 離せや!!」


 言い合う二式と逢坂の姿を、出演者やスタッフたちが遠巻きに眺めている。日本からやって来たたったふたりがこんな風に大声を上げてやり取りをしていては、確かに空気も悪くなるだろう。逢坂の手をようやく振り払った二式は肩で息をしながら、


「とにかく……もう、なんも知らん僕やないからな」

「……へえ? つまり?」

「と、とらいあ──」

「おおっと」


 三会會Triadと発音しかけた二式の口を逢坂が大きな手で塞ぐ。


「その言葉は、あんまり大きな声で言わない方がいい」

「なに、言うて……」

「ところで二式、噂の郭さんはどこにいるんだ?」

「え?」


 そういえば──昨日は、撮影所に入った途端「阿二!」と声をかけながら駆け寄ってきてくれたというのに。


「郭さん……?」

「嫌な予感がするなぁ」

「は?」

「もしかしたら、第五撮影所にいるんじゃないかな?」

「……はあ!?」


 封鎖されている第五撮影所。劉紅花リウ・ホンファの殺害現場となった場所。無念のうちに命を散らした若い女優の幽霊が出ると──噂になっている場所。


「郭さんはまともな人や、封鎖されとる撮影所なんかに行くはずが」

「まともな人間から狂っていくのが、この姚神狐ヤオシャンフー有限公司って場所でね」

「適当言うなや、この……!!」

「──陳先生、陳先生!!」


 第三撮影所の扉が大きく開かれる。立っているのは助監督のドミニク・チョイだ。

 見るからに青褪めた彼は突然の大声に呆気に取られる俳優やスタッフを掻き分けて、台本のチェックをしていた陳監督の耳元に何事かを囁く。


「おい、葛原二式」

皓空ホウフン、早いやん」

「親父の映画にはゲスト出演程度と決まっている。……ああ逢坂先生、今日はあんたもいるのか」


 チョイ助監督が開け放ったドアから入ってきた皓空ホウフンは、同じぐらいの上背の逢坂を睨め付けながら低く声を発する。逢坂は特に感じるものもない様子でニコニコと笑みを浮かべている。


「……阿二」


 ドミニク・チョイ助監督が手招きをしている。二式と逢坂、それになぜか皓空ホウフンも一緒に陳監督の前に並んで立つ。


「郭女士(郭さんが)」

「……通訳の郭さんが?」


 逢坂が太い眉を跳ね上げる。


「郭先生出事了(郭さんが事故に遭った)」

「事故に遭った……?」

「は……!? なんで!? 事故!?」


 裏返った声を上げる二式を沈痛な面持ちで見詰めながら、陳監督は静かな口調で続ける。


「二樓嘅拍攝室似乎出咗乜嘢事(二階にある撮影所の中で何かがあったらしい)」

「二階にある撮影所で……何かがあったって言ってるぞ、おい」

「……第五撮影所」


 長いまつ毛をゆっくりと揺らしながら呟く皓空ホウフンに「阿空!」と陳監督が厳しい声を上げる。


「不要說太多(余計なことを言うんじゃない)」


 逢坂が翻訳をしなくても、郭が傍にいなくても、二式には広東語が理解できてしまう。


「點都好,我要開槍咗。 逢坂先生,請翻譯(とにかく、撮影を行います。逢坂先生、翻訳をお願いします)」

「我理解(わかりました)」


 そうして始まる撮影に集中できるはずもなかったが、二式はほとんどミスを犯さなかった。多くても同じシーンを三度撮影するだけでOKが出た。二式はずっと、郭封鈴カク・フーリンのことを考えていた。機械的に台詞を口にするだけで、「見事だ、素晴らしい」と陳監督は褒めてくれた。


 やがて──夕刻。


 通訳担当者、郭封鈴カク・フーリンが搬送先の病院で命を落としたという一報が、EGG STUDIO内に飛び込んでくる。

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