第21話

 日本人の『夫』による劉紅花リウ・ホンファの殺人事件以降、姚神狐ヤオシャンフー有限公司の裏の顔は箍が外れた。一族の思い通りにならない者。秘密を共有することで重鎮俳優となったアベルチャンに反抗的な態度を取る者。大勢の女性俳優やスタッフが被害者となり、すべての犯罪行為を三会會Triadが闇に葬った。


 葬られたはずだった。


 第四撮影所──正確には四ではなく第五撮影所と呼ばれている場所にグゥワイが出るという噂が流れ始めたのは、いつ頃からだっただろう。ただでさえ姚神狐ヤオシャンフー有限公司の中心部に属する関係者以外は立ち入り禁止とされていた第五撮影所の入り口は物理で封鎖され、封鎖前には祈祷師を呼んで儀式も行われ、無数のお札が撮影所内に貼られた──という話だった。その上、第五撮影所があるEGG STUDIOの二階に通じる階段を使うことも禁じられた。

 遠回りをして別の階段を使用し、三階にある第六、第七撮影所を使う俳優や監督からは「女性の泣き声が聞こえる」「獣の咆哮が聞こえる」という証言が流れるようになった。劉紅花リウ・ホンファの死から一年近く経った頃だろうか。劉紅花リウ・ホンファ殺人事件の主犯である日本人の男は、赤ん坊を連れて撮影所から姿を消していた。姚神狐ヤオシャンフー有限公司、一族は三会會Triadに依頼して男の行方を追ってはいたが、然程熱心ではなかった。男を見付けたら、赤ん坊諸共殺さなくてはならない。殺人に際して、一族は「面倒だ」という感想しか持っていなかった。だから、別に男が発見されない分にはそれで構わなかった。彼もまた殺人者なのだ。第五撮影所で行われていたことを、ペラペラと口外することはないだろう。それよりも、問題は姚神狐ヤオシャンフー有限公司内部の声だった。女性の泣き声。獣の咆哮。それらは絶対に、存在してはいけなかった。だから、だろうか。そういった発言をした者はいつの間にか姚神狐ヤオシャンフー有限公司を去った。姿


 天井から滴る血が、二式の膝の辺りまで迫ってくる。肌を焼かれ、血が流れる程度では済まされない。体がいうことを聞かない。両脚が重い。動けない。歩けない。このままではこの血の中で溺れて死んでしまうな、と少しだけ愉快な気持ちで思う。だが、溺れ死んでいる暇はない。少なくとも傍らの皓空ホウフンがまだ諦めていないというのなら。勝手に心が折れたと言い放つのは、卑怯で無責任だ。


「……何笑ってやがる」

「おまえも笑っとるで、阿空」

「そうかよ、阿二」

「ふふ」

「あははは」


 三会會としている情報屋・春はもう逃亡者になっただろうか。姚神狐ヤオシャンフー有限公司が抱えている秘密を一介の俳優たち相手にここまで徹底的に暴露したのだ。三会會は彼を許さないだろう。無事でいてくれれば良いと思う。


 葛原二式は、香港にずっと来たかった。母親が香港人であるということは、父親から聞いて知っていた。広東語は父親から習った。母親はもう生きていないということも、周りくどく聞かされていた。父親と母親のあいだに、何か大きな事情があるということも。二式に広東語を教え、数少ない母親との思い出話を聞かせてくれた父親は既に鬼籍に入っている。二式が陽光映画製作会社の大部屋俳優になった年に、病気で死んだ。二式の年頃の父親にしては、彼は若くなかった。だから仕方がない。親戚縁者がひとりもいない父親の葬式を、二式は淡々とこなした。

 父親にも、母親にも、葛原二式として銀幕に立つ姿を見てもらえない。少しだけ寂しくは思ったが、しがらみがないというのは良いことだと強引に自分を奮い立たせた。今回の姚神狐ヤオシャンフー有限公司からの招聘も、そういう気持ちで受けた。香港に行くことはできれば自分のことを、そして父や母のことを、もっと知ることができるのではないかと期待していた。


 ああ、だけど、今。


ユエ!」


 ようやく、呉玥ン・ユエが寝かされている場所──祭壇のような場所に辿り着く。血の海の中に沈んでいた妹を皓空ホウフンが震える手で抱き上げる。


ユエ……しっかりしろ、ユエ!」


 呼吸が止まっている。涙声で妹の名を呼ぶ皓空ホウフンが華奢な体を揺さぶり、ユエがようやくゲホゲホと大きく咳き込む。口の中からどっと溢れる真っ赤な液体は彼女自身の血液ではなく、第四撮影所を埋め尽くす血が口の中に流れ込んだせいで、呼吸が停止していたらしい。


「哥哥……?(お兄さん?)」

「乜都唔好講。 睡(何も言うな。寝てろ)」


 妹の体を高く掲げて、皓空ホウフンが静かに笑う。溺れる。血の海は皓空ホウフンの肩口まで迫っていた。二式に至っては真っ直ぐに天井を見上げないと呼吸すらできなくなるような状況だった。


「阿二」

「何や」

「俺は、ユエが無事ならそれでいい。別に助かりたいとは思わない。……おまえは?」

「僕は」


 真っ暗な部屋の中にうずくまる母の姿。美しかったはずの母の姿。汚泥に塗れた憐れな体。光のない両目。二式は、たしかにそれを目にした。

 助けたかった。母を。母だけではない。郭を。それに、大勢の他の被害者たちを。


「……僕は、カクさんに申し訳ない」

「郭女士か」

「僕なんかに関わらんかったら、郭さんは死なんで済んだかもしれへん」

「そうか」

「言えるうちに言うわ、お母さんごめん、郭さんも……」


 郭さん。

 そう口にした瞬間、、と音がした。


 音の響く方に顔を向ける。血の海が割れている。床が見える。


 二式と皓空ホウフンは一瞬視線を見交わし、互いに声を掛け合うこともなく狭い空間に飛び込んだ。

 その一帯だけ血に塗れていない乾いて薄汚れた床の上には、が転がっている。


「なんだ、これ」

「これ……アレやん。見たで、皓空ホウフンと一緒に出る映画で僕が使う小道具や!」


 本物の日本刀ではない。撮影所の小道具担当のスタッフが製作した、どこかいびつな日本刀。刀身ももちろん本物ではなく、木製で、人やモノを殴るぐらいはできても斬ることはできない。


 手を伸ばす。刀を掴む。郭封鈴カク・フーリンと交わした会話を思い出す。


 本物の日本刀を準備できなくてごめんなさいね、とあの優しい通訳は笑っていた。

 でも、うちのスタッフも一生懸命準備したから、ぜひ使ってね、と──


 ハッと息を呑む。


 以前皓空ホウフンから劉紅花の話を聞いた際。セットをすべて撤去した第五撮影所には祈祷師を呼んで、たくさんのお札が貼られていると聞いた。あの時二式は、亡くなった人間──劉紅花リウ・ホンファの心を安らげるために祈祷師を呼び、お札を貼ったのだと思い込んでいた。


 


皓空ホウフン! ユエさんから手ぇ離すなや!」


 日本刀を拾い、鞘を捨てて構える。まずは今自分たちがいるこの空間。おそらく母が──劉紅花リウ・ホンファが作ってくれた最初で最後の逃げ場。無駄にするわけにはいかない。


 勢い良く振り返る。目の前には真っ黒いお札が貼られている。

 二式が想像していた、劉紅花リウ・ホンファの心を安らげるためのものとはお世辞にも言えない、欲望の色をした紙切れ。


 殺陣の要領で動き、斬り裂く。

 刀身は本物ではなく、木製のはずなのに、切っ先が触れたお札は真っ二つになる。


 血の海がまた、僅かに割れる。奥の壁に別のお札が見える。


 駆ける。斬り裂く。繰り返す。


「阿二……!」

「阿空! グゥワイは俺のお母さんやない! ここでひどい目に遭わされた女の人たちでもない! グゥワイは──下の階で腑抜けた面晒しとるクズどもや!!」


 お札を一枚斬り裂く度に、血の海が引いていく。何度同じ動きを繰り返したか分からない。母がここにいる。郭封鈴カク・フーリンも、また。取り戻す。解放する。その一心で刀を振るう。ふと我に返って辺りを見回すと、第四撮影所──第五撮影所が、ただ広いだけの、打ち捨てられた薄汚れた空間になっていることに気付く。

 ユエを肩に担いだ皓空ホウフンが、床に落ちたお札を拾い上げる。


劉紅花リウ・ホンファ……姐姐……」

「お母さんの名前が書かれとるんか。クソが」

「他にも……知ってる名前がいる。本当に全員、ここで、春が言っていたような目に遭わされたのか? ……俺たちは犯罪者が作る映画に加担してたのか……?」


 途方に暮れた様子の皓空ホウフンには、は届いていないようだった。


二式さん二式生

「……郭さん郭女士?」


 辺りを見回す。姿はない。

 第五撮影所には広い窓が幾つもあって、血の海が引いたこの場所は外から差し込む光を受けて、恐ろしくなるほど明るい。


二式さん二式生、阿二、あなたはどうか無事で、幸せに」

郭さん郭女士!? 郭さん郭姐姐、どこにおるんや、なあ、この刀……!!」


 ふと見ると、右手に握った刀は重さを失っている。

 ただの木製の棒切れを手に、二式は「郭さん郭姐姐」と呟き、静かに俯いた。

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