第21話
日本人の『夫』による
葬られたはずだった。
第四撮影所──正確には四ではなく第五撮影所と呼ばれている場所に
遠回りをして別の階段を使用し、三階にある第六、第七撮影所を使う俳優や監督からは「女性の泣き声が聞こえる」「獣の咆哮が聞こえる」という証言が流れるようになった。
天井から滴る血が、二式の膝の辺りまで迫ってくる。肌を焼かれ、血が流れる程度では済まされない。体がいうことを聞かない。両脚が重い。動けない。歩けない。このままではこの血の中で溺れて死んでしまうな、と少しだけ愉快な気持ちで思う。だが、溺れ死んでいる暇はない。少なくとも傍らの
「……何笑ってやがる」
「おまえも笑っとるで、阿空」
「そうかよ、阿二」
「ふふ」
「あははは」
三会會と契約している情報屋・春はもう逃亡者になっただろうか。
葛原二式は、香港にずっと来たかった。母親が香港人であるということは、父親から聞いて知っていた。広東語は父親から習った。母親はもう生きていないということも、周りくどく聞かされていた。父親と母親のあいだに、何か大きな事情があるということも。二式に広東語を教え、数少ない母親との思い出話を聞かせてくれた父親は既に鬼籍に入っている。二式が陽光映画製作会社の大部屋俳優になった年に、病気で死んだ。二式の年頃の父親にしては、彼は若くなかった。だから仕方がない。親戚縁者がひとりもいない父親の葬式を、二式は淡々とこなした。
父親にも、母親にも、葛原二式として銀幕に立つ姿を見てもらえない。少しだけ寂しくは思ったが、しがらみがないというのは良いことだと強引に自分を奮い立たせた。今回の
ああ、だけど、今。
「
ようやく、
「
呼吸が止まっている。涙声で妹の名を呼ぶ
「哥哥……?(お兄さん?)」
「乜都唔好講。 睡(何も言うな。寝てろ)」
妹の体を高く掲げて、
「阿二」
「何や」
「俺は、
「僕は」
真っ暗な部屋の中にうずくまる母の姿。美しかったはずの母の姿。汚泥に塗れた憐れな体。光のない両目。二式は、たしかにそれを目にした。
助けたかった。母を。母だけではない。郭を。それに、大勢の他の被害者たちを。
「……僕は、
「郭女士か」
「僕なんかに関わらんかったら、郭さんは死なんで済んだかもしれへん」
「そうか」
「言えるうちに言うわ、お母さんごめん、郭さんも……」
郭さん。
そう口にした瞬間、カラン、と音がした。
音の響く方に顔を向ける。血の海が割れている。床が見える。
二式と
その一帯だけ血に塗れていない乾いて薄汚れた床の上には、日本刀が転がっている。
「なんだ、これ」
「これ……アレやん。見たで、
本物の日本刀ではない。撮影所の小道具担当のスタッフが製作した、どこかいびつな日本刀。刀身ももちろん本物ではなく、木製で、人やモノを殴るぐらいはできても斬ることはできない。
手を伸ばす。刀を掴む。
本物の日本刀を準備できなくてごめんなさいね、とあの優しい通訳は笑っていた。
でも、うちのスタッフも一生懸命準備したから、ぜひ使ってね、と──
ハッと息を呑む。
以前
逆だ。
「
日本刀を拾い、鞘を捨てて構える。まずは今自分たちがいるこの空間。おそらく母が──
勢い良く振り返る。目の前には真っ黒いお札が貼られている。
二式が想像していた、
殺陣の要領で動き、斬り裂く。
刀身は本物ではなく、木製のはずなのに、切っ先が触れたお札は真っ二つになる。
血の海がまた、僅かに割れる。奥の壁に別のお札が見える。
駆ける。斬り裂く。繰り返す。
「阿二……!」
「阿空!
お札を一枚斬り裂く度に、血の海が引いていく。何度同じ動きを繰り返したか分からない。母がここにいる。
「
「お母さんの名前が書かれとるんか。クソが」
「他にも……知ってる名前がいる。本当に全員、ここで、春が言っていたような目に遭わされたのか? ……俺たちは犯罪者が作る映画に加担してたのか……?」
途方に暮れた様子の
「
「……
辺りを見回す。姿はない。
第五撮影所には広い窓が幾つもあって、血の海が引いたこの場所は外から差し込む光を受けて、恐ろしくなるほど明るい。
「
「
ふと見ると、右手に握った刀は重さを失っている。
ただの木製の棒切れを手に、二式は「
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