第20話

 劉紅花リウ・ホンファとその一族は大陸から香港に渡ってきて、それから姚神狐ヤオシャンフー有限公司に所属するようになった俳優一家だと皓空ホウフンからは聞いていた。おそらく、姚神狐ヤオシャンフー有限公司の誰に訊いても同じ返答があったことだろう。特に劉紅花リウ・ホンファの逝去後に生まれた俳優や若手スタッフ、それに大陸から渡ってきた面々には劉紅花リウ・ホンファはそういう──悲劇の俳優なのだというマニュアル通りの説明が行われていたからだ。

 本当のことを知っているのは劉紅花リウ・ホンファ姚神狐ヤオシャンフー有限公司に所属する以前から彼女の存在を知っている年嵩の俳優、スタッフ、それに監督たちだけ。


 劉紅花リウ・ホンファは、かつて香港に存在した映画製作会社に所属していた俳優だ。一族が三会會Triadの手を借りて潰して回った幾つもの小さな映画製作会社。その中のひとつに、劉紅花リウ・ホンファとその一族は所属していた。正確には彼女の家族が俳優や監督として仕事をしていただけで、一族が香港を制圧したタイミングでは劉紅花リウ・ホンファはまだ俳優ではなかった。

 俳優ではなかったし、その道を選ぶとも断言してはいなかったけれど──眩いばかりの圧倒的な美貌を持つ劉紅花リウ・ホンファを、一族は喉から手が出るほどに欲した。彼女の家族も全員まとめて会社に、姚神狐ヤオシャンフー有限公司で雇用するという条件で劉紅花リウ・ホンファ姚神狐ヤオシャンフー有限公司の期待の新人俳優として売り出そうとした。


 劉紅花リウ・ホンファは聡く、そして頑固な一面を持った女性だった。自身の親兄弟が世話になっていた映画製作会社が三会會Triadの手によって潰されたことを、その背後に一族がいるということを知っていた。劉紅花リウ・ホンファ一族が差し伸べた欲望に塗れた手を取らなかった。そうして言った。自分はいつまでも香港にいるつもりはない、──と。彼女は単身で大陸に去ろうとし、一族は焦りに焦った。こんな予定ではなかった。三会會Triadは大陸でも通じる力を持っているが、劉紅花リウ・ホンファを無理やり香港に連れ戻したところで映画に本人の合意がなければ映画に出演させることはできない。そこで一族は──若き日のアベルチャンに相談を持ちかけた。


 当時のアベルチャンは美男俳優として名高く、香港に移住してきた一族がいちばん初めに声をかけた相手が彼だった。当時はアベルチャンとは名乗っていなかった。俳優でもなく、漁港で仕事をするただの男だった。一族には俳優として売れそうな人間を見抜く能力があり、街中でのスカウトをきっかけに姚神狐ヤオシャンフー有限公司に所属するようになった俳優は少なくない。アベルチャンの任務は色仕掛けだった。劉紅花リウ・ホンファを口説き落とし、恋仲になる。一族の思惑は当たり、若く、未だ恋を知らない劉紅花リウ・ホンファはアベルチャンに夢中になった。ただ問題がひとつあった。アベルチャンには妻子があった。一族もアベルチャンも、そういった倫理観に基づく警戒心を持ち合わせていなかったのだが、劉紅花リウ・ホンファは違った。二年ほどの交際の末、劉紅花リウ・ホンファは妊娠し、男児を産み落とす。アベルチャンは焦り、一族もまた混乱した。妊娠、出産を一族にもアベルチャンにも告げずに自身の家族にだけ告げて行った劉紅花は、珠のような赤ん坊を抱いて言った。──「この子の父親を用意してくれるなら」「あなたたちの会社で俳優として仕事をすることを検討してもいい」。


 ヘドロのような、人間のような。阿片のような、麻薬のような、お香のような。何もかもすべてが混ざり合った、何者でもない存在が、広い第四撮影所にじわじわと広がっていく。二式は血を流す皓空ホウフンに肩を貸し、足元に這い寄る暗がりを踏み付けながら前に進もうとする。悲鳴が聞こえる。泣き声が響き渡る。女の悲鳴のようにも、赤ん坊の泣き声のようにも聞こえる。自分は、どうかしてしまったのだろうか。途方に暮れそうな気持ちに内心喝を入れながら、一歩、また一歩を床を踏み締める。二式も皓空ホウフンも既にお互いの血で身体中を赤く染めつつあり、気を抜いた瞬間倒れ込みそうなほどに体力を削られている。


「お母さん……待たしてほんまにごめんなぁ……もっと早うに、お父さんも一緒に香港に来れたら良かったんに……」

「紅花姐姐……你喺呢度待咗好長時間咩?(ずっと、ここにいたんですか?)」


 天井から血が滴る。二式の痩せた腕に、華奢な肩に、皓空ホウフンの広い背中に、頑健な腰に、激痛とともに火傷ができる。血が流れる。生命を削られていく。生きることを許されない。この撮影所は、もはや彼岸こちら側からはほど遠い。強い者が弱い者を踏み締める。弄ぶ。生命も、人権も、魂も、何もかもを奪われ蹂躙されるだけの狂った場所。

 だが二式は、そして皓空ホウフンは正気を失うわけにいかない。春天から情報を得て、自ら望んでこの場所に乗り込んできた。覚悟の上だ。すべて分かっている。

 この痛みは。

 劉紅花の痛みだ。

 そして、で命を落とした人々が背負う痛みだ。


 劉紅花リウ・ホンファが産んだ子どもの父親として当てがわれたのは、当時姚神狐ヤオシャンフー有限公司で仕事をしていた日本人の男だった。彼は俳優ではなく、スタッフで、広東語と日本語、更に英語も話すことができて、主に通訳として各スタジオを飛び回っていた。劉紅花リウ・ホンファが惚れ込んだ若きアベルチャンのような美男子ではなかった。だが彼は、自分の子どもではない劉紅花リウ・ホンファの息子の世話を熱心に行い、配偶者ではなく使用人を見るような目付きしかしない劉紅花リウ・ホンファにも礼儀正しく接した。劉紅花リウ・ホンファはやがて、自身の『夫』を信用した。

 それもまた、一族の想定外の出来事だった。一族は劉紅花リウ・ホンファが日本人の『夫』を嫌悪することを期待していた。そうして結局はアベルチャンを求め──形だけの第二夫人として、銀幕の中で寄り添うことを願う。最終的な目標は、美男子のアダムチャンから離れることができなくなった劉紅花リウ・ホンファを飼い殺しにすることだった。

 だがある時、劉紅花リウ・ホンファ一族、当時の社長の部屋にひとりで押しかけて、きっぱりと言い放った。


「我哋去日本(私たち、日本に行く)」


 劉紅花リウ・ホンファは当時二十五歳だった。アダム張の血を引く息子は二歳。姚神狐ヤオシャンフー有限公司では劉紅花リウ・ホンファを遅れてきた新人としてデビューさせるためにグラビア撮影を行い、その写真が掲載された一冊目の雑誌が世の中に流通し始めたばかりのタイミングだった。


「喺老公嘅家鄉,佢演咗一部電影(夫の故郷で映画に出るわ)」


 劉紅花リウ・ホンファは華やかに笑った。

 それで、一族は思い出したのだ。


 ──最初から、彼女は言い放っていたではないか。



 劉紅花リウ・ホンファを契約で縛り付けることはできない。色仕掛けも無意味だ。彼女はどこまでも奔放で、どこまでも自由で、美しく、強い。


 ──劉紅花リウ・ホンファの気高さをへし折ることを諦めた一族は、三会會Triadを頼った。


 足だけではなく、全身が重い。身体中がボロボロだ。流れる血を止められない。二式も、皓空ホウフンも。互いで互いの体を支え合っているような状態だった。どちらか一方が手を離したら、ふたり揃って目の前の真っ黒い床に倒れ込むことになるだろう。そうして血の雨を浴びて、身体中が焼け爛れる。そんなことにはなりたくない。なっている場合ではない。今守られるべきは皓空ホウフンと二式の生命だけではない。手を伸ばせばすぐ届きそうな場所で、呉玥ン・ユエが意識を失っているのだ。


 三会會は一族に命令し、姚神狐ヤオシャンフー有限公司に所属する一部の女性俳優たちに売春を行わせていた。役名も付かない端役として映像に映る者たちがほとんどで、それでも「姚神狐ヤオシャンフー有限公司の新作に出演した女優を抱ける」という売り文句に大勢の男が群がった。俳優として会社に所属したはずなのに──と絶望して自ら命を断つ者も少なからずいたが、すべて三会會がただの事故として片付けた。三会會の力は警察にも及んでいる。三会會が事故だと言い張れば、どんなに不自然でも事故でしかないのだ。


 香港を去ると言い切った劉紅花リウ・ホンファは、その宣言から数日後のある日第四撮影所に引き摺り込まれた。現場にはアベルチャンがおり、一族の重鎮たち、更には三会會Triadの幹部もいた。劉紅花リウ・ホンファは手酷く蹂躙され、その心は呆気なく壊れた。凌辱は一度や二度では済まなかった。デビュー作のタイトルすら決まっていない劉紅花リウ・ホンファは繰り返しEGG STUDIOに呼び付けられ、実際の映画の製作が行われている一階の撮影所に脚を踏み入れることは一度もなく、長い、長い時間を、第四撮影所で過ごすようになった。二日も経つ頃には、家族が待つ家に戻ることもなくなった。ある時心配して第四撮影所に駆け付けたのは、息子を抱いた日本人の『夫』だった。


 彼は、わずか数日で徹底的に壊された妻を、見た。


「殺咗我」


 愛する『夫』を濁った瞳に映した劉紅花リウ・ホンファは掠れ切った声で言った。それは、劉紅花リウ・ホンファが数日の時を経てようやく口にすることを許された『言葉』だった。彼女を蹂躙した男たちは第四撮影所で煙草や阿片を吸って寛いでおり、劉紅花リウ・ホンファの震え声を小馬鹿にしたように笑った。


 日本人の『夫』は息子に頬擦りをして、撮影所の扉の外に置き、それから三会會Triadのひとりがふところに呑んでいた小刀を奪い取り、劉紅花リウ・ホンファの左胸をひと突きにした。

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