第19話

ユエ! 瞓醒!起きろ! ユエ!」

「なあおい皓空ホウフン、この匂い、お香だけやないで」

「何!? なんの話だ!?」

「春も言うとったやん、三会會の仕事のうちのひとつ──」


 ──麻薬の密売。

 くん、と鼻を鳴らす二式に逆に腕を掴まれた皓空ホウフンが大きく目を瞬かせ、


「麻薬……いや違う、これは阿片か!?」

「俺には分からん! 嗅いだことないし……」

ユエ! 目を覚ませよ! ユエ!!」


 今にも妹に駆け寄りたいはずの皓空ホウフンの足が、一歩も前に進まない。まるで床から伸びる手に足首を掴まれでもしているかのように、焦れったく身を捩ることしかできない。

 ここには本当に、グゥワイがいるとでもいうのか。

 いるとするならば──グゥワイの正体はなんだ。死んだ人間の魂が、未だこの撮影所を彷徨っているというのか。


(おかしい、腑に落ちん、僕の中の『鬼』と香港の『グゥワイ』がどうも一致せん……)


ユエ! ユエ!」


 叫ぶ皓空ホウフンの眼から大粒の涙が溢れる。「泣くな!」と二式が声を張り上げる。皓空ホウフンを叱り付けてもどうにもならないということぐらいは分かっている。だが今、彼に弱気になってもらうわけにはいかないのだ。


「ここはやぞ皓空ホウフン! ……しっかりせえ! 弱みを見せたらせーのでお陀仏になるかもしれんのやぞ、……皓空ホウフン! あかん、避けろ!」


 気付いて、体当たりをした時には既に遅かった。二式の痩躯では皓空ホウフンのがっしりとした体躯を突き飛ばすことができず、天井から滴った真っ赤な血液が目の前の男の滑らかな首筋を鋭く灼く。大きく開いた傷口から血が溢れ、皓空ホウフンは唸り声を上げながら床に崩れ落ちる。


「言わんこっちゃない! 落ち着けや! 天井見ろ! めちゃくちゃ狙われとるぞ!! これ全部グゥワイの仕業なんか!?」

「落ち着いていられるか! グゥワイのことも知らん!! それより妹が……あそこに俺の妹が!!」

「せやから落ち着け、ユエさんはまだ何もされてへん。言いたかないけど……カクさんとは違う。まだ間に合う、大丈夫や、さっきおまえ言うとったやろ……頼れって。僕はおまえを頼る。せやからおまえは自分を……自分のことと、それに僕のことも信じろ!! ユエさんを取り戻して、一緒にこんなところ抜け出すんや!!」


 体を震わせながらも立ち上がろうとする皓空ホウフンの首筋から溢れる血を手のひらでぎゅっと押さえて、二式は唸る。そうだ。郭封鈴カク・フーリンはあっという間に命を落とした。間に合わなかった。気付けなかった。彼女が狙われていたことに。狙われる可能性があったということに。だが呉玥ン・ユエは違う。薄い瞼を閉じて意識を失っているようだが、白いブラウスに紺色のスカートを身に着けた体も顔も、死人の色をしていない。呼吸をしている。生きている。だから。


 郭封鈴との会話を思い出す。彼女は、日本人嫌いのアベルチャンが日本での映画撮影に赴いたという話をしてくれた。話自体は途中で終わってしまったけれど──最後までちゃんと聞いていれば、郭は命を落とさないで済んだのだろうか? それとも、三会會の力を借りている姚神狐ヤオシャンフー有限公司のの秘密を暴露したことで、結局殺されてしまったのだろうか? 分からない。


 分からないことばかりだ。

 だから今は、目の前にいるユエを救い出すことだけを考える。

 傍らにいる皓空ホウフンを信じて、頼り、頼られることだけを望む。


 秘密。葛原二式も抱えている、秘密。

 床に膝を付いたままの皓空ホウフンの肩に手を置き、二式は息を吸う。

 そうして腹から声を出す。口にする予定がなかった響き。


「……亞媽!」


 

 第四撮影所に響き渡る渾身の叫びに、応じる者はいない──いや、いる。

 広い第四撮影所。その四方の暗がりに、闇よりもよほど黒い何かが蠢いている。

 ──ああ、あれが、母か。

 本当だったのか、と皓空ホウフンが呟いている。途方に暮れているようにも、絶望しているようにも見える。二式は僅かに口元を歪める。泣いていいのか、笑っていいのか分からない。

 ただ、母親が。記憶の中に薄っすらと残る優しく美しい笑顔を浮かべた母親は、二十年以上もこの暗がりの中に閉じ込められていた。

 辿り着けるとは思っていなかった。それなのにようやく辿り着けた。

 誰かが招いてくれたのか、それともすべては罠なのか。


「お母さん、僕や! 二式が来たで!」


 皓空ホウフンには、アレはいったい何に見えているのだろう。ドロドロとした真っ黒い不気味な鬼だろうか。それとも生前の──絶世の美貌を誇った、そうして生きていれば今も映画俳優として活動を続けていたはずの女性に、見えているのだろうか。

 劉紅花リウ・ホンファ

 葛原二式を産んだ、母親の名前だ。

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