第17話

 EGG STUDIOの二階──今はもう使用されていない第五撮影所までの階段は、異様に長かった。少し登る度にたくさんの箱馬や鉄屑たちに足止めをされるせいで、余計にそう感じたのかもしれない。


「クソ、どうしても第五撮影所には関係者以外を入れたくねえようだな」


 箱馬を掴んで階段の下に投げ落とす皓空ホウフンの手が既に血まみれになっていることに、二式は気付いている。だが、何も言いはしない。謝罪をしても、礼を言っても、それは皓空ホウフンの心を折る一端となる可能性がある。彼が根を上げた時、「阿二、先は任せる」と口にしてようやく──葛原二式の出番は来るのだ。


「藍さんや情くんを呼んでくれば良かったな、箱馬片付け係として」

「はは、そいつぁ面白え。だが阿藍アーランは力仕事に向いてないし、阿情アーチンに至ってはあの筋肉は撮影用に鍛えただけの代物だ。こういう場所じゃ邪魔になるだけで、何の役にも立たねえ」

「え? そうなん? せやったら……情くんと喧嘩になったら僕が勝つかな?」

「さあ……あいつは人と喧嘩もしねえし、でかい声も出さない大人しい野郎だから、てめえがあの剣幕で迫ったら泣くかも……」

「うはは! 全部終わったら情くんのこといじめてみよ!」

「ほどほどにしとけよ……っと!」


 皓空ホウフンが放り投げた鉄屑の塊が床に落ちて、大きな音を響かせる。階下から誰かが追ってくる気配はなかった。追ってこようにも皓空ホウフンが次から次へと大量の荷物を階下に向けて放り投げているというめちゃくちゃな状況で、怪我をする可能性を視野に入れてまで第五撮影所に入ろうという気概を持つ者は存在しない。あの時──大人たちの、年嵩の人間たちの、過去の姚神狐ヤオシャンフー有限公司を知る者たちの苦々しい顔を見るだけで分かった。みんな知っていたのだ。知っていて、罪をなすりつけて、忘れて、忘れて、忘れて、そうして?


(……カクさん!)


 奥歯を強く噛み締める。彼女が犠牲にならなければいけない理由はただひとつ。夜、三会會Triadと契約を交わしている情報屋・春にも言われたし、二式自身自覚があった。何も知らなかった皓空ホウフンは突如明かされた真実に激昂することもなく、静かに、「そうだったのか」と呟いて黙った。


 葛原二式という人間は、生まれてはいけなかった。

 そういう意味では自分こそが鬼なのかもしれないと二式は思う。

 自分さえいなければ。

 生まれてこなければ。


「阿二!」

「ん! 何や!」

「ドアだ!」


 最後の照明機材をぶん投げて、皓空ホウフンが叫んだ。彼の指し示す先には『第五撮影所』という色褪せた看板。そして大量の鉄板を打ち付けられた木製の扉。


「封鎖って……ここもされとるんか? 冗談やろ……」

「いや、この扉はさすがに開くはずだ。そうじゃなかったら」


 郭封鈴カク・フーリンが中に入り込めたはずがない。

 皓空ホウフンの言わんとすることはすぐに察しがついた。無言で頷いた二式は鉄板に指先で触れ、


「どっかの釘とかネジとかが外れとるはず……」

「鉄板ごと引き剥がすんじゃ無理か?」

「当たりも付けんでそれやると、一発でおまえの手ぇが使い物にならんくなるで、阿空」

「む……」

「まだ頑張ってもらわな困んねん。僕ひとりでできることは限られとる」


 ペタペタと鉄板、それに木製の扉に触れながら言う二式の傍らで、皓空ホウフンが小さく笑う。こんな時だというのに、奇妙に人懐っこい表情をしていた。


「ようやく認めたか、阿二」

「あ? 何や急に」

「そんなんだからてめえは半人前なんだよ。俳優としても、人間としてもな」

「何やそれ。僕がまだ若いってことを言いたいんか? 年齢差はどうやっても埋められへんやろ」

「そういう話をしてるんじゃねえんだよ。幾ら年を食ってもな、てめえは結局一人前にはなれねえ」

「おい……こんな時に喧嘩売っとるん?」

「てめえは」


 見つけた──木製の扉に打ち付けられた鉄板。その釘が二ヶ所、外れている場所がある。この鉄板を引き剥がせば、完全に封印されているように見せかけてある扉を開くことが可能になる。

 鉄板に手を掛ける二式の手に自身の血まみれの指を重ねて、皓空ホウフンが言った。


「いいか? 負い目を捨てろ。もっと頼れ」


 言葉と同時に、力任せに鉄板を引き剥がす。勢い余って皓空ホウフンの腕の中に二式は倒れ込み、木製の扉が大きく開かれた。


(もっと……頼れ?)


 皓空ホウフンの口から出たとは思えない台詞を噛み締める間も無く、第五撮影所の封印が解かれる。皓空ホウフンは二式の体を支えて立ち上がり、真っ暗な──違和感を覚えるほどに暗い第五撮影所の中を覗き込む。その背中越しに撮影所の中に顔を突っ込んだ二式は、すぐに大きく鼻を鳴らし、


「えっ……何やこの匂い。お香……?」

「血だ」

「え!」


 シャツの裾で両手の血を拭いながら皓空ホウフンが唸る。準備の良い彼はズボンの尻ポケットから懐中電灯を取り出して、


「間違いない。血の匂いがする」

「それをお香で……誤魔化しとるとか?」

「いや。香を焚いているのはおそらく、どこかにを祀っているから──」


 転瞬。

 ふたりが完全に第五撮影所内に入り込むのを待っていたかのようなタイミングで、バタン! と大きな音をたてて扉が閉まる。

 だが、二式も皓空ホウフンも怯えはしない。この程度の怪奇現象は、想定内だ。

 情報屋・春の言葉を思い出す。

 第五撮影所は、あるけれどない、ないけれどある、そういう場所だった。最初からそうだった。


といって、EGG STUDIOには最初から第四撮影所が存在しない。でもねおふたりさん、四という数字をすっ飛ばしたからといって……


 縁起を担ぐとか、気の持ちようとか、そういった一般人の感覚は春には通用しないようだった。

 だから二式と皓空ホウフンも、そのつもりで今、第五撮影所──ではなく、にいる。


「上か」


 皓空ホウフンが唸る。先を行く二式の肩を強く掴んだ皓空ホウフンが、懐中電灯で天井を照らす。

 撮影所というにはあまりにも低い天井だった。たとえばここで、何を撮影することができるだろう。二式は考える。派手な殺陣があるようなシーンはまず撮れない。姚神狐ヤオシャンフー有限公司に所属する俳優たちは皆高く跳ぶ。二式にも同じだけの動きを求められた。幸いにも葛原二式は陽光映画製作所の大部屋時代に様々なアクションの技を仕込まれていたので、要求される以上の殺陣を披露することができた。だが、ここ第四撮影所では、無理だ。


「血……?」


 滴る。

 天井から、真っ赤な液体が。

 鉄の匂いがする。

 二式の二の腕に滴った血液を、皓空ホウフンが素早く払う。だが、一瞬遅い。

 灼けるような激痛に二式は小さく唸り声を漏らす。「阿二」という声に「大丈夫や」とどうにか応えを絞り出す。

 血糊じゃない。本物の血がポタリポタリと──


「郭女士……!」


 郭封鈴はここで何を見た。

 何をされた。


「阿二!」


 二式をほとんど抱え込むように庇う皓空ホウフンが叫ぶ。


「人がいる!」


 懐中電灯の頼りのない光の先でぐったりと横たわっているのは。


「……ユエ!」


 呉玥ン・ユエ──芸名・明花ミン・ファ皓空ホウフンの実の妹にして、姚神狐ヤオシャンフー有限公司に所属する新進気鋭の女性俳優。

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