第12話 真奈 – 1
すでに22時を回っていた。
軽めの食事を摂り、シャワーを浴びて、明日の仕事の段取りを確認し、遅くとも0時にはベッドに入る。5時には起床しなければならない。
帰宅してから寝入るまでを考えながら帰途の電車に揺られていた。
帰宅してから寝るまでのことを考える必要なんてなかった。毎日同じことを繰り返しているだけだ。
ただ、少しでも自分の時間のことを考えていないと現実を生きている感覚がどんどん薄まっていく。
私を現実に引き留めているのは、毎晩帰宅してから寝つくまでの自分の時間を考えることだけだった。
私はまだ夢を果たせていない。
高校を卒業したのち、それなりに名の通ったパティスリーに就職することができた。下積みとして都内の店舗を転々とし、去年から郊外の店舗の店長を任せられるようになった。
だが今の私は、私が目指したパティシエの姿ではない。
例えば、子供の誕生日ケーキの依頼が入ったとしたら、子供の好きな遊びや趣味などをケーキのデザインに盛り込みたい。結婚記念日のお祝いのシャンパンに合わせるスイーツの依頼が入ったとしたら、夫婦の好みに合うクッキーとお祝いのメッセージを添えたい。
お客様それぞれに合わせた、私らしい工夫を凝らせる仕事がしたかった。
今は売上と経費の管理、集客方法、スタッフのマネジメント、経営者から届く商品レシピ通りに商品を作り、ショーケースに陳列していくのが私の仕事だ。
もっと人に寄り添った仕事がしたかった。
私はこの夏に30歳になっていた。
恋人がいたこともあったが、長くは続かなかった。あまりにも時間が作れないのだ。早朝から深夜まで仕事に張り付けになり、休日は仕事に関わる勉強で明け暮れるか、あるいは疲労でまったく外に出れなかった。連絡すらまともに返せない私から、当然のように離れていった恋人達。
今の生活を続けることに疑問はあったが、独立するような自信は全くない。
今の自分に対して、まどろむような不満がただただ高まり続けている毎日。
今の私は、なりたかった私だろうか。それを考える気力も残っていなかった。
多忙に心が擦り減る日々の中で、真奈に思いを巡らせることはほとんどない。心の奥底に封印した鈍い痛みの伴う苦い思い出。
中学を卒業してからも私は真奈との間に起こったことを消化できず、その思い出は高校生活に暗い影を落とした。友達ができても心から打ち解けることができなくなっていた。
私はいつか人を裏切る。それが怖くて人との間に微妙な距離を保つようになってしまっていた。誰も心から信頼できる人がいない環境で、私は勉強だけに打ち込んだ。
そうすることで、いつしか真奈を思い出すことはなくなっていった。
ただときおり眠りを妨げる音として、真奈の声が頭に響き渡る。冷たく脳を突き刺すような水琴窟の声。中学を卒業してからずっとだ。その声で目を覚ますと再び眠りにつくことはできないのだ。貴重な睡眠時間を削る真奈の声が、私には腹立たしかった。
いつまでもいつまでも、本当にしつこい。中学生の時の記憶なんて、全て頭の中から消してやりたい。
眠りの中でまたあの声を聞くことを考えると、電車の中であるにもかかわらず声を伴う大きなため息が出た。
電車の冷房が普段より冷たく肌寒く感じた。
その時、母からメールが届いた。
「あなた宛の手紙を預かったので郵送しておきました。どうしようか迷ったんだけど、お父さんと相談してそうしました」
手紙? なんだろう。何の手紙なのか聞いたが、「読めばわかる」としか答えてくれなかった。お父さんと相談するようなことなの? 忙しいのに、いったい何なのよ。
父とはほとんど連絡を取らない。たまに実家に帰ったとしても会話を交わすことはない。
父を見ると私が心の奥深くにしまい込んだ自己嫌悪の塊が脈を打ち出すからだ。
卑怯な父。自分だけ被害者みたいな顔をした真奈と、それに腹を立てている卑怯な私。見たくもないものが心の中でモヤモヤした人の形を作り、私の中から這い出てくるのを感じる。だから私は極力父との接点を絶っていた。
父も私を見ない。だが、視界の隅で父が私の顔色を窺っていることに気づくことがある。自分が中学生の頃の私に対して強制した行動に思うことがあるのかもしれない。私と同じように苦しむことがあるのだとしたら、いい気味だった。
帰宅すると郵便受けにレターパックが届いていた。それををベッドに投げた瞬間に頭の中からその存在は消えていた。
簡単な食事を済ませてからシャワーを浴びた。明日の仕事の予定を頭に巡らせる。明日は材料の納入がある。ケーキの予約も何件か入っていたはずだ。スタッフが一人風邪で出勤できていない。明日もおそらく出勤は無理だろう。息つく暇はなさそうだ。
髪を乾かし、ベッドに寝転ぶ。
足に何かが当たるのに気づき、ようやく母から送られてきたレターパックの存在を思い出した。
まどろむ目をこすりながら封を開けると、ひとまわり小さい封筒が入っていた。
封筒の表面には几帳面そうな丁寧な字で「椎名静子 様」と書かれていた。裏面を見ても差出人の名前はない。封筒を開けると、便箋が1枚ともう一回り小さいサイズの封筒が入っていた。
便箋の文字を目がなぞった瞬間、身体がバネのように跳ね返り、上半身が「く」の字に曲がって前につんのめりそうになった。
椎名静子様
突然のお手紙失礼します。
静子さんの中学校の同級生だった吉野真奈の父です。
娘、吉野真奈は20XX年XX月XX日、病のため永眠しました。
同封した手紙は真奈が静子さん宛に書き残した最後の手紙です。
真奈はあなたと連絡をとっておらず住所がわからないと言っていたため、この手紙を託されたのち、中学校の卒業名簿から静子さんのご実家のご連絡先を確認し、ご家族に無理を言ってこの手紙を預かっていただきました。
静子さんは我が家の事情をご存知でしょう。
ご不快な思いをされるかもしれないと考えたのですが、真奈の最後の気持ちを考えるといてもたってもいられず、このような形でご連絡をとらさせていただいた次第です。
静子さんのご都合も考えず不躾なお願いとなり誠に申し訳ありませんが、娘の気持ちに少しでも寄り添っていただけますと娘も喜ぶかと思います。
どうかご容赦ください。
吉野真奈 父
真奈が……死んだ?
あまりに非現実的で、想像もしていなかった文面に私は混乱した。
なんで……? いや、それよりも今更私に何を書き残したって言うの?
同封されていた封筒を見る。か細い字で、「静子へ」と書かれている。真奈が書く字をきちんと見たことはない。だが封筒に書かれた私の名前は、私を呼ぶ真奈のあの声と確かに重なった。
手が震える。胃が痛い。胃液が喉元まで込み上げてくるの我慢した。深呼吸をする、何度も。
封筒を開け、数枚の便箋を取り出した。
細く、小さな字。だが意外にも止め・払いがしっかりされた力のこもった字だった。
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