第13話 耳の虫

 意識して呼吸をしないと酸欠になりそうなほどに、手紙を読むことに集中していた。

 真奈の父親の便箋を見返す。真奈が亡くなったのはほんの2週間前だった。つい最近まで真奈がこの紙に触れ、この紙に文字を書き連ねていたのかもしれない。真奈の体温が伝わってくるような気がした。


 私は本当にバカだ。真奈はこれほどまでに私のことを考えてくれていた。

 あの時の私が大人だった? そんなわけがない。あの日、真奈に謝罪をしたかったのはただのエゴだ。自分のエゴを無理やり通すため、真奈を責めさえした。現に今の今でさえ、真奈のことを終わった苦々しい思い出として心の奥深くに閉じ込めて、二度と見たくもないと考えていた。


 中学生のころから私は何も成長していない。相変わらず自分勝手で独りよがり。何も見えていない。真奈のことも、自分のことさえも。

 あの頃から一度だって、真奈に追いつけたことなんてなかったのだ。


 手紙を抱いてベッドに横たわった。

 ごめんなさい、真奈、本当にごめんなさい。


 泣きたかった。大声で泣き叫び、自分を壊してしまいたかった。


 でも涙は出ない。

 まだあの時から20年は経っていないのだ。



***



 真奈の手紙を読んだ夜以来、眠りの中に真奈の声が現れることはなくなった。


 真奈はこの世から姿を消し、私はいつも通りの日常を送る。これまで通り、多忙な仕事に明け暮れる毎日。

 ただ、帰りの電車の中で帰宅してからの行動を考えることはしなくなった。考えてもすることはいつもと変わらないのだ。


 代わりにいつか真奈の絵を見にいく想像を膨らませた。今はそれが私を現実と結びつけてくれている。


 今度まとめて休みを取ろう。長い長い休み。

真奈の絵を見に行くのだ。真奈の娘とも話したい。


 色のついた真奈の海の絵。深い青の中にきらめく銀色のイワシの群れ。それを断ち割るグレーのイルカ。その全てを照らす、黄色と緑の光。

 海の底に立ち、逆光になったイワシの群れを見上げる。暴れ回るイルカ達を目で追う。

 見えなくなってしまっていた私を見つけられるだろうか。


 あまり気は進まないけれど、ことのついでだ。実家に立ち寄り両親の様子を見に行ってやろう。ガトーショコラを焼いて持っていこうか。


 眠りにつくまでの間、真奈の手紙を読み返す。もう何度読んだか覚えていない。



 真奈。

 私、やっぱり自分勝手でごめん。


 真奈の声が聞きたいよ。


 耳を突き刺す冷たい水琴窟の音。


 でもあの音は、もう二度と私の耳に響くことはない。


 私の耳の虫は、どこか遠くに飛び立ってしまった。


<了>

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