第6話 雑木林

「真奈、よかった。やっぱりここにいた」


 振り向いた真奈と視線を交わす。唇は動かさず、「久しぶり」の意味を含んだ視線が交差する。


 中3の写生大会。去年も一昨年もここで会っている。

 言葉に出さずとも、視線で会話ができる空気が私たちには確かにあった。



 去年のように走り出すようなことはなかった。必ず真奈はそこにいるという確信があったからだ。


 真奈の隣に座り、画板に画用紙を置く。真奈の画用紙はまだ白いままだった。


 去年と同じように焼いてきたお菓子を手渡す。

「焼いてきてくれると思ってた。こんなにたくさん、すごい!」

 真奈はありがとうと言いながら笑い、嬉しそうにお菓子を頬張る。


 真奈は真奈の秘密に触れそうな何かがあると表情が冷たくなる。実はものすごい美人だから、その冷たさに拍車が掛かる。

 でも普段は今みたいな屈託のない顔をする子なんだろう。子供のような表情で焼き菓子を見つめながら、それをかじっている。


 その落差に、私は笑いが出てしまった。真奈は不思議そうな顔で私を見ている。


「どうかな? おいしい?」

 あえて軽い言葉で聞いてみた。心臓の音を聞かれないかヒヤヒヤしながら。なにせ一年の集大成だ。

「ものすごくおいしい。去年もすごくおいしかったけど。なんか、なんだろう。なんて言ったらいいかわからない」

「言葉にならないくらいってこと?」

「言葉にしたいけど、できない。おいしいだけじゃ足りない」


 嬉しかった。私も言葉では表せないくらい嬉しかった。この日のために、一生懸命努力したのだ。そしてこの日があるから、私はやりたいことに向けて歩いていくと決められたのだ。


「真奈」

 真奈が私に顔を向ける。

「私、中学を卒業したら東京に行くの」

 真奈が吊った目を大きく開いた。私の顔を見つめてくる。


「去年、真奈にクッキーを焼いてからずっとお菓子作りを続けてきたの。週に何回も。作りすぎてお母さんに叱られるくらい。味見のしすぎでお母さん、太っちゃった」

 真奈は私の次の言葉を待っているようだった。


「真奈に、私は才能があるって言われたでしょ。よく分からなかったんだけど、真奈に褒めらたことがすごく嬉しくて。真奈にもっとおいしいお菓子を作ってもっと喜んでもらいたくて。


 毎日お菓子のことばかり考えて、頑張ってお菓子を作ってたの。そうしたら、お菓子を作って誰かが喜んでくれるのがすごく楽しくなっちゃって。いろんな人に喜ばれると、私、自分のことを好きでいられるんだなって思ったの」

 真奈の視線が私に注がれている。


「だから、私は自分のお店を開きたい。みんなが喜んでくれて、私が幸せになれるお菓子屋さんを開くために、東京の製菓科がある高校に行ってパティシエになるの」


 真奈は私の言葉をゆっくり消化しているみたいだった。何度も繰り返すまばたき。


 真奈の言葉を待つ私。

 真奈は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。


「すごいなあ、静子は。本当にすごい」


 真奈にそう言ってもらえて、私は誇らしかった。

「真奈のおかげなんだよ、全部。真奈が私に、全部くれたんだよ。真奈が私を、今みたいに、こんな感じにしてくれたんだ」


 うまく言葉にならなかった。もっと言葉にしたい気持ちがある。追いつかない。今日が最後なのに。


 悔しい。寂しい。悲しい。

 寂しい。


 このまま時間を止めてずっと真奈と話していたかった。だったらお菓子が足りなくなっちゃうな。もっと大きな袋を買って、もっとたくさんお菓子を詰めてくればよかった。

 もし時間が止まるなら。



「私は、大人になった時のことを静子みたいに考えたことがなかった」

 真奈はまた空を見ている。遠くを見ながら気持ちを話すのが真奈の癖なんだと気づいた。


「私だってそうだよ。

 学校を卒業して、高校も卒業して。大人になったらこうして真奈と毎日お話してるんだと思ってた」

 真奈が唇を噛む。言葉は返ってこなかった。


 無言の時間を埋めるように、私は画用紙に鉛筆を動かす。


 見慣れた雑木林。描きとっていく。去年、一昨年と同じ。

 でもその中に、細くて頼りなさそうだけど、若葉を空に向けて懸命に伸ばしているような木を見つけた。

 こんな木、あったっけ?



「——私は……海の絵を描きたい。叔父さんの写真を全部、絵にしたい」


 真奈が呟くように言った。小さな声だったが、喉の奥に詰まっていた何かをようやく吐き出せたような声。

 それを、私が聞き逃すはずがなかった。


「真奈! 絶対やるべきだよ! 

 真奈の海の絵は、もっといろんな人に見てもらうべきだし、あんなにきれいな絵を描く人、他にいると思う?

 真奈の絵ってすごいんだよ?」


「うん。……うん」

 真奈の返事は少し震えていた。

 自分の言った言葉が大きな意味を孕んでいたことに、後から気づいたかのようだった。少しの不安と、ぼやけていたものが急に見えるようになったような驚き。


「それにね!」

 ああ、私、またはじまっちゃった。だめだ。止められない。


「叔父さんの写真を絵にするって、すごい素敵なことだと思う。真奈にしかできないことだし、叔父さんだって大喜びするよ! 


 私だって真奈の絵をもっと見たい! だって真奈の絵は、私のこの辺……胸のこの辺りをいっぱいにしてくれて、ダメだなって私を少しはマシかも、ダメじゃないのかもって思わせてくれたんだよ?


 真奈の絵を見たから……

 真奈の絵を見たから、私は私のことを好きになれたんだよ!」


 何が言いたいのか分からなくなった。でも何かを言い切った感じがする。


 隣で真奈が吹き出す声が聞こえた。

 やっぱりおかしなことを言ってしまったんだ。


「さっきまで大人っぽいことを言ってたのに。静子は結局そうなる」

 真奈はそう言うと、抑えられないように大笑いし始めた。


「なんで笑うの!」

 私も釣られて大笑いする。おかしなことは言ったけど、変なことは言わなかったみたいだ。


「うん……うん。でもありがとう」


 真奈からのお礼に私はうなずいた。

 真奈にもやってみたいことがある。

 私たちはこの先別々な場所で生活をするけれど、きっと互いが頑張っていることを考えながらそれぞれの夢に向かって進むのだろう。

 静子とそういう柔らかな誓いを結べたことが、私の心を穏やかにした。


 私は、いや私たちは、少しだけ大人に近づいている気がした。去年、一昨年には思いもよらなかった話ができるようになっているのだ。

 真奈とずっとこうして大人になっていきたい。


 心地いい無言の中、絵を描き進める。

 仕上がる頃、15時のチャイムが鳴った。


「静子、描き終わったんでしょ。私はもう少し描いていくから先に戻ってて」

 真奈は目に強い光を湛えていた。

「待ってるよ。まだ時間あるし」

 私は、少しでも真奈と一緒にいたい。

「ううん。大丈夫。ちょっと1人になりたいから」


 1人になりたい? 今日が私とお話できる最後の日なのに?

 まだ何か言おうとする私を真奈は制した。

「大丈夫だから。行って」

 私が言葉を出すことを真奈は許さなかった。柔らかな空気の中で、真奈の言葉には力強さがあった。


 これで終わっちゃうんだ。もう、真奈とは会えなくなる。

「ねえ、真奈。卒業式の日にさ」

 真奈が私の顔を見た。


「ここで会おうよ、真奈。卒業式が終わったら」

「……うん。わかった」

「ほんと? 絶対だよ? 友達としての約束だからね?」

「ずっとの友達ね」

 真奈ははにかみながら、多分、と付け加えた。

 私も笑う。


 真奈に背を向けて校舎に向かう坂を登る。坂の頂上に辿り着き後ろを振り返ると、下の方に真剣に画用紙に向かう真奈の姿が見えた。


 大丈夫。私たちはきっとまた話せる。今日みたいに笑いながら。



 1週間後、写生大会の絵が廊下に貼り出された。

 私の絵。なんでもない雑木林。でも真ん中に、上に向かって伸びようとしている、一本の細い木が佇んでいた。

 これは私だ。私になれた私。これから、特別な何かになれるかもしれない私。今は細くていい。


 隣のクラスの廊下に行き、真奈の絵を探した。なんでもない雑木林の絵を探す。


 あった。

 真奈の雑木林の絵には、他よりも高い木、他よりも葉っぱが多い木、他よりも幹が太い木、いろんな「他よりも」が描かれていた。


 同じ顔をした木なんか、ひとつもなかった。

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