第9話 自己嫌悪

 夏休みが明けてからも私と真奈の距離に変化はなかった。いつものように、すれ違ったとしても言葉は交わさない。

 ただ、視線を合わせた時に感じることができた意思疎通が以前ほど噛み合わなくなっていると思うことが度々あった。


 例えるなら。赤い花を想像した時、以前の私たちは揃って真紅のバラを想像したが、最近では私がワインレッドのバラ、真奈が朱色のバラを想像するような、ほんの些細なズレ。


 バラはバラだし、赤は赤だ。大きな違いはない。だがこのわずかなズレがいつか、白のストライプが入った赤いバラとピンクのバラに変わってしまったり、あるいは赤いけれどバラとチューリップに変わってしまったりすることを私は怖れた。


 ズレの原因は分かっている。私は真奈の秘密を知ってしまった。それを真奈に言えない私が抱える、密やかな後ろめたさが原因だ。伝える方法もない。そして伝える言葉も持たなかった。


 その後ろめたさが視線を合わせる私の態度に違和感を含ませる。自分の気持ちをコントロールできない苦い余韻がほんの0.1秒目を泳がせ、ほんの0.1秒早く視線を逸らさせる。


 もちろん真奈がそれに気づいているわけではない。私が真奈と目が合うことに意味を持たせすぎているにすぎないし、その意味が壊れ始めていることを私が勝手に怖がっているにすぎない。


 些細なことだ。自分に言い聞かせる。気にしなくていい。


 だがそう思えば思うほど、自分の抱える後ろめたさが際立った。私が真奈に対してできることが見つけられない。真奈の秘密を半分背負うと密かに心に決めたのに。真奈の心に寄り添うと心に決めたのに。半分分けてよ、その一言も言えない私に一体何ができるの? 


 じゃあなぜ私はその一言が言えない? 真奈から話しかけることを禁じられているから? 


 違う。

 自分が大事からだ。東京への進学を諦められないからだ。


 父が私に押し付けた約束。いや、違う。私が受け入れた約束だ。


 私は卑怯になってしまった。

 やっと見つけることができた、私を私にしてくれた夢。これから先に待つ、大変だろうけど私の夢を叶えるための大切な日々。その夢を目指すことはいつしか、真奈の存在と同じくらい、私の中では大事なものになっていた。


 どちらも捨てたくはない。天秤になんてかけられるものじゃない。


 私は無力だ。真奈に対しても、自分に対しても。


 「どうしたらいい?」という、まるで悩んでいるかのように聞こえる都合のいい言葉に私自身を肩まで浸からせ、自分自身を慰めているだけだ。その自分に気づく度、真奈と向き合うことから、自分と向き合うことから目を背けていく。


 何で私だけ、こんなに辛い選択を迫られなければならないのだろう。真奈が自ら私に秘密を打ち明けてくれないかな。

 そうすれば、私はずっと真奈の友達。卒業するまでは友達じゃない振りをするけれど、卒業式の日にまたお話しようと伝えられるのに。


 よく考えれば、真奈が友達の私にずっと叔父さんのことを秘密にしているのが原因じゃないか。友達なのに、私と真奈はもう親友なのに。私を信用してくれない真奈にだって責任があるんじゃないの——?


 そう考えている自分に気づいた時、私は震えるほどの自己嫌悪に陥った。こんな自分が嫌いだ。秋の台風の雷が私に落ちて、細胞ひとつ残すことなく燃やし尽くして塵にしてくれたらいいのに。そうしたら私は夢も友達も家族も持たず、空気としてだけこの世界に存在できる。


 現実逃避を繰り返しているうち、私が好きになった私はどんどん存在が薄くなり、私が私になれたと考えたことは希薄な思い出へと変わっていった。

 真奈と目が合う度、それが繰り返された。


 いつからか、私は真奈の姿を避けるようになっていた。


***


 秋の終わり。強い風が木の葉を舞い上がらせ、首をマフラーの中で縮めてしまうほど冷えたある日。


 廊下を歩く真奈と正面から目が合った。私は真奈の目をまっすぐ見つめることに怯え、一瞬で目を逸らしてしまった。


 もう何度目かわからない自己嫌悪。

 廊下の床に視線を移し、歩みを進めた。

 何事もなかったかのような表情を作り、いつも通りすれ違う。その間際に真奈をチラリと見た。


 真奈は廊下で立ち止まり、私から一度も目を逸らしていなかった。私が目を逸らしてからもずっと私に注がれていた真奈の視線。


 その視線と私の視線が改めてぶつかる。


 真奈の瞳に、灰色の深い絶望が見えた。クッキーをおいしそうに食べてくれた時、私にすごいねと褒めてくれた時、叔父さんの絵を描きたいと話してくれた時に見せてくれた、キラキラした私の大好きな目はそこにはなく、傷だらけの悲しみを湛えた深い深い絶望だけが見えた。


 その目を見て私は悟った。

 ——私の気持ちの全て見透かされた。


 足から膝までを凍らせるように冷えた空気。

校舎の窓が全て開き、凍える木枯らしが廊下を吹き抜けて行ったと思うほどの寒気。


 私は目を強くつむり、前を向いて真奈を通り過ぎた。無意識に走っていた。

 真奈から、自分から、逃げたのだ。


 そこにはもう、バラもチューリップもなかった。

 花の季節が終わったからじゃない。そこにあった花を全て引き抜いたのは、私自身だった。

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