耳の虫

空野わん

第1話 静子 – 1

「私の存在を消したのは静子だよ」


 冷たく響く真奈の声。キンキンキンと頭の中を凍らせる水琴窟の響き。金属音と電子音の中間のような音が鼓膜を揺らす。


 その音で私は目を覚ました。


 印象に残った音や音楽がふとした瞬間に耳の中で再生されることを「イヤーワーム」というらしい。耳の虫。


 母親が口ずさんでいた歌や00年代のポップスが耳に蘇る人はなんて幸せなのだろう。少なくとも私ほど嫌な記憶が蘇ることはないはずだ。

 私の耳の中の虫は金属と電子の間の音しか鳴らさない。


 冴えた目を時計に向け、時間を見る。午前3時半。寝ついてから2時間と少し。

 私は大きくため息をついた。ここからはもう眠れない。何度も繰り返していることだから身体の経験が意識をなぞる。


 翌日の仕事量とそれに備えられる体力を天秤に掛ける。

 体力が全然足りない。

 天秤をできるだけ均衡させようと朝が来るまでの何時間かを私は眼をつむり、ベッドの上でじっとやり過ごす。


 なぜだろう。いつもは記憶に蓋をするのに。

 嫌な思い出。なぜか今日は私と真奈、2人のことを思い出していた。


***


「真奈、よかった。やっぱりここにいた」


 振り向いた真奈と視線を交わす。唇は動かさず、「久しぶり」の意味を含んだ視線が交差する。


 中3の写生大会。去年も一昨年もここで会っている。

 言葉に出さずとも、視線で会話ができる空気が私たちには確かにあった。


***


 真奈と初めて言葉を交わしたのは中1の初夏だ。年に一度の写生大会。

 学校の敷地の外れ、雑木林が正面に見える場所。


 多くの生徒は題材にしやすい銅像や高くそびえる一本杉、植木鉢の花、校舎の全景が見えるグラウンドなどに群がり、どこにでもあるなんでもない雑木林には目もくれなかった。


 「なんでもない」景色を探していた私が真っ先に思いついたのはその雑木林だった。


 仲のいい女の子のグループから山が見える屋上に行こうと誘われていたが、やんわり断った。

 私たちのグループはクラスでも目立つ方だ。

いつも騒がしい。気が置けない友達たち。

 あの子達が嫌いなわけじゃない。みんないい子だ。

 でも、サッカー部の誰がかっこいいとか恋愛バラエティ番組がどうとか中間テストの結果が悪かったとか。


 最近グループの中でときおり居心地の悪さを感じる私にとって、今はその全てが雑音だった。


 特別なことがしたいわけじゃない。でも、クラスメイトと同じこともしたくない。

 何かになりたいけれど、どうなりたいのかが分からない。


 今朝、父から中間テストの結果について小言を言われた。何で数学がこんなに悪いんだ。ちゃんと勉強しているのか。更に、制服のスカートの丈についても、短すぎる、近所の方たちにどんな目で見られるか、お父さんの仕事のことも考えなさい、の合わせ技だ。


 なんなの、お父さんの仕事なんか私には関係ない。


 イライラする。何かが爆発する3歩手前な気分が心の中でいつも渦巻いている。


 触れられない霧のように私を包んでくる不確かなものから逃げたかったから、私は「なんでもない」ものを探していた。


 誰も選ばない「なんでもない」ものの中に私だけが特別に見つけられる何かがあると思っていた。それを早く見つけないと、私が心の中に宿しているモヤモヤしたものは晴れることはない。

 私は早く私だけの特別な何かを見つけて、あの父に何を言われても毅然としていられる自分にならなければならない。でないと、きっと近いうちに何かが弾けてしまう。


 その思いを託した雑木林の前で、私より先に絵を描いていた少女と出会ったのだ。


 それが真奈だった。


 選んだ場所に先客がいることが少し不服だったが、彼女の少し後方に腰掛けて雑木林を描き写す。


 目の前を横切る小径の奥に、7,8メートルくらいの高さの木が十数本固まっている。ここからならその全景を捉えられる。


 白い画用紙に濃い鉛筆で木を描き取っていく。

 この木はあの木より高い。

 この木はあの木より葉っぱが多い。

 この木は背も低いし葉っぱも少ないけれど、どの木よりも幹がしっかりしている。台風が来てもびくともしなそうだ。


 描き写す一本一本の木を自分と比べていることに気が付いた時、心の中のモヤモヤが大きくなり、私は鉛筆を置いて深いため息をついた。


 この雑木林の中に、私を私にしてくれる何かがあることを期待していた。


 見つかったのは、どの木にもなれないし、雑木林に見下されているように感じた自分自身だけだった。

 集中力が途切れた自分をごまかすように周りを見渡す。


 少女の姿が前方にある。夢中で画用紙に鉛筆を走らせている。

 私が後ろに座っていたことにも気づいていなさそうだった。


 吉野真奈。確かそんな名前だったはず。話したことはない。

 隣のクラスだったか。

 目立たず、人と話しているところを見たことがない。地味な子だ。


 昼休みになったら一人で教室を出て行き、午後の授業の前にはいつのまにか席に戻っているような子。

 たとえ同じクラスだったとしても、教室にいるかどうかも私には分からないだろう。私のグループにはいないタイプだ。


 手持ち無沙汰になった私は吉野真奈に近寄り、後ろから画用紙をそっと覗き込んだ。


 目を瞠った。


 画用紙一面に描かれた魚の群れ。キラキラ光る魚の腹が目まぐるしく回転し、龍が住んでいる雲を連想させる。水族館で群れで動くイワシの塊を見たことがある。サーディンランと言ったか。


 その群れを断ち割るいくつかの大きな魚体。これはイルカだ。狩りに猛った荒々しい動きで、海中に強い波を起こしているのが伝わってくる。


 右端には人影が2つ。ダイバーだろう。海面から注ぐ陽の光が影を落とし、逆光の中で小さく海藻のように漂っている。


 左側は岩場で、そこから突き出た木の枝のようなものは珊瑚。まだ描き途中のようだ。


 鉛筆の濃淡だけで、海底から上を見上げた景色が微細に描かれていた。


 私はこれまで、こんなにも美しい絵を見たことがなかった。


「きれい……」

 思わず口に出てしまった。


 私の声に驚き、真奈は肩を跳ね上げた。その勢いで画板がひっくり返る。


「ごめんね! 驚かせるつもりはなくて。すごいね! それ海の絵でしょ?

 2組の吉野さんだよね? 私のこと知ってる? 1組の椎名。椎名静子!」


「うん」

 怯えが感じられる声だった。だけど私は自分が止められなかった。


「すごいきれい。絵が得意なんだね! それ、サーディンランってやつだよね? 私、水族館で見たことある。

 吉野さんが描いていたのは本物の海にいる群れだよね? すごく大きくてきれいなやつ!」


「うん……」

 聞こえるか聞こえないかの返事。


 私は恥ずかしいくらいに興奮が抑えられなかった。

 真奈の答えが聞きたいというよりも、自分の気持ちを沈めるために矢継ぎ早に質問を投げかけていた。


 驚きと戸惑いでうつむいた真奈の顔を覗き込んだ。

 私は弾かれたように後ろに尻もちをついた。


 この子は、地味なんかじゃない。


 少し吊り上がった伏せた目が長めの前髪から覗いていた。墨を押し付けたように黒く大きな瞳だった。

 うつむいた角度のせいか、降り注ぐ太陽の光はまっすぐな黒髪を透いて、顔の上に涼しげな陰影を作っていた。

 その陰影が肌の白さを際立たせる。

 長くて細いまつ毛すら濃い影を作っている。


 驚きで少し赤みが差した唇は癖のある尖り方をしていた。それが少し面長な輪郭にとても似つかわしかった。


 戸惑いにうつむく真奈の顔が美しかったのだ。


 無言の時間を作ってしまった。そぞろ立つ空白の時間。

 慌てた私はこの瞬間にこの世界でもっとも無意味な言葉を大声で叫んでしまった。


「私、1組の椎名静子!」


 しまった。さっきも言った。


 声の大きさに真奈は目を見開く。

 また驚かせた。変なやつだと思われただろう。


「うん、知ってる。

椎名さん。……なんで泣いてるの?」


 私は気づかぬうちに泣きじゃくっていたのだ。

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