第1話 静子 – 2

 なぜ私は泣いているんだろう。涙が抑えられなかった。

 心だ。

 心臓とは違う、身体のどこかに確かにある器官。それが涙腺と直結してしまった感覚。


 真奈の絵が私の心の底にあった重油のような澱みを激しくかき混ぜ、均一な液体へと変えてしまった。

 そして思いもしなかった真奈の美しさが心を激しく脈打たせ、その液体を鉄砲水のように涙腺に押し運んだのだ。


 涙腺は几帳面に、それを無色透明の涙に変えるしかなくて、無遠慮な心の圧力に押し込まれ、働かされ、調整弁をおかしくされてしまった。


 心臓は血を運ぶ。

 心は涙を運ぶのだ。

 それを私は初めて知った。



 視界の隅に真奈の顔が映る。慌てた様子もない真剣な顔だ。私の全てを見透かそうとするような目。

 こんな顔もするんだ。でもその表情も涙で滲んでクリーム色にぼやけていく。


 大丈夫? 先生呼んでくる?


 遠く遠くで真奈の声が聞こえた気がした。冷ややかな声。私は首を大きく左右に振る。

 大丈夫、そう言いたいのにうまく声にならない。ひゃっくりが止まらない。


 吉野さん、ごめん、本当にごめん。

 泣くことを止められない自分への諦めに、真奈を巻き込んでしまっている。

 私、ほんと情けない。


 何も言わなくなった真奈の傍らで、私は声を上げながら泣き続けた。何も聞こえない無音を聞きながら、私は泣き続けた。


 10分ほど泣きじゃくると心の中が空っぽになったのか、涙は一滴も出なくなった。

 ひゃっくりも落ち着いた。息が吸える。

 身体中の水分が抜けてしまった気がする。手に力が入らない。震えている。


「もう大丈夫。吉野さん、ごめんね」

 ひどい声だ。ガラガラにかすれている。黒板を爪で引っ掻く音の方がまだまともだ。


 真奈の目が私の顔を覗き込んでくる。

「椎名さん、水道で顔を洗いに行く?」

 私は真奈に寄り添われて校舎近くの水飲み場に行った。


 初夏の少しだけ生ぬるい水を目に当てる。

 目が熱い。顔が熱い。首筋も。このまま全身で水を浴びてしまいたかった。

 蛇口から噴き出る水から目を離したら、真奈にどんな顔を向ければいいんだろう。


 おそらく20年分の涙を10分でまとめて流してしまった。

 話したこともない人にそんなひどい泣き顔を見せた人間は、この先どう生きていけばいいんだろう。


 顔がさらに熱を帯びてくるのを感じた。その時ようやく喉が渇いていたことを思い出した。

 真奈に顔を見られない角度に首を傾け、噴き出る水に口をつけ、しばらくの間飲み続けた。


 よし。

 少し気合いを入れた。


 私は顔を上げ、真奈に向き合った。

 真奈の顔は無表情で、長い前髪の隙間から透ける眼差しだけは季節外れなつららのような鋭さで私に注がれていた。


 迷惑をかけてしまった。呆れられている。


 胃がキリキリと痛んだ。

 美しい顔の人は、こんな風に人を責めることもできるのだ。

「ほんとごめん。訳わかんないよね」

 声は少しだけ元に戻ったみたいだ。


「椎名さん、絵、書き終わった? まだなら一緒に戻ろう」

 冷たく響く声。氷の上で心を転がされているようだ。

 私はうなずき、歩き出す真奈の後ろについていった。


 気を悪くしただろう。こんなことに巻き込まれて。

 さっきまで真奈は一心不乱に絵を描いていた。私はそれを勝手に覗き込んだ挙句、大騒ぎして真奈の時間を奪ってしまったのだ。


 前を歩く真奈の後ろ姿から怒気が感じられる。そうでなければこんなに歩くペースが速いはずがない。


 申し訳なさに消えてしまいたかった。

 歩みを早めて真奈に追いつくのもばつが悪い。遅れて離れすぎるのも、私の情けなさを見透かされるようで肩身が狭くなる。

 湧き上がる自己嫌悪に駆られながら少し後ろの位置を保って歩くしかなかった。


 雑木林の前に辿り着き、私は自分の画材を胸に抱えた。

「いろいろごめん。私、他の場所に行くから。邪魔してごめんなさい」

 その場から逃げる選択しかできない自分を呪いながら真奈に背を向けた。


「待って!」

 空気が震えるほどの真奈の声。

 振り返ると真奈は吊り気味の目を更に吊り上げていた。

「横に座って。一緒に描こう」


 恐怖した。でもこれだけ迷惑を掛けたんだ、断ることができる訳がない。

 私は無言でうなずき、真奈の隣に腰掛けた。

 投げかけられる言葉を待ちながら、画板を抱えて雑木林に目をやった。


「椎名さん」

 柔らかい刃物のような声だ。冷たく耳を打つように響いてくる。

 私は伏せ目がちに真奈の方に顔を向けた。


「なんで泣いたの?」

 聞かれたくない問いだった。自分でもうまく説明できない。

 だが、頭の中が整理できないまま、言葉が勝手に先行した。整理が追いつくのを待つように、たどたどしく言葉が口から出てくる。


「私、ずっとイライラしてて。自分のことが大嫌いなの。仲のいい友達も、家族も、みんな好きなのに嫌いで。そういう自分が大嫌いなの。私、訳わかんないって。


 私なんて中身が全然何もなくて空っぽなんだよ。本当にだめだ、何もないんだよ。

 でも吉野さんの絵を見たときに、私の中に水が入ってきて、中が水でいっぱいになって、水が溢れた気がしたの。私、元の重さに戻ったのかもって。


 そうしたら、嬉しいのか悲しいのか分からないけれど。なんかホッとして。涙が止まらなくなっちゃったの」


 真奈がきれいだったから。それは言わなかった。私だって空気くらい読める。


 顔を下に向けて、ゆっくりゆっくりと言いきった。これだけ時間をかけてやったのに、結局整理は追いついてこなかった。自分でも何を言っているか分からなかった。


 泣きたかった。でも涙はもう出てこない。少なくとも20年は。


 真奈は何も言わない。

 沈黙が響いて耳が痛い。

 我慢できず私は真奈に顔を向けた。真奈も下を向き、私の言葉を聞いていたみたいだ。

 私の視線に気づいたのか、少し時間を置いて真奈は勢いよく顔を上げて私に向き合った。


 笑顔だった。咲いたばかりのひまわりのような。大きく開かれた目は熱を帯びた潤いをたたえていた。口は横に長く引き伸ばされ白い粒立った前歯が上下とも覗いている。


 大事な宝物を友達に見せる時の、照れ隠しではにかむような子供の笑顔だった。

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