第1話 静子 – 3

「分かった。教えてくれてありがとう」

 力のこもった声でそう言うと、真奈は画板を整えて再び絵を描き始めた。


 私は混乱した。この子は一体なんなんだろう。

私はこの子をどう受け止めればいいんだろう。分からないことだらけだ。


 海の奥底で手を伸ばし、水をつかもうとしているみたいだ。手に触れている存在はそこにあるのに、目には見えない、光の加減で目まぐるしく色味を変える青みのある透明な液体。


 しばらく真奈の様子をうかがう。怒っていないのかもしれないと思うと、私は真奈への興味が抑えられなくなった。


「吉野さん、聞いてもいい?」

「うん」

 真奈は絵を描きながら返事をした。


「真奈って呼んでいい? 私と友達になってもらえない?」

 目を丸くした真奈が私の顔を見る。

「え?」


 しまった。先ほど言った言葉は間違っていた。私はきっと、空気が読めない。

 真奈にしてみれば先ほどまで迷惑をかけられていた相手だ。いきなり呼び捨てにしていいか、友達になろうなんて言われれば気味悪がられるに決まってる。


 だが、友達になりたいのは本心だ。真奈の絵は私の心をぐちゃぐちゃに掻き回した。そんなことをする人に興味を持つなというのが無理な話だ。なによりも真奈はとてもかわいい。そうか、私の口は心よりも先に、真奈に夢中になっている自分に気づいていたのだ。


 真奈はまだ驚いた顔をしている。

 私は気まずさをごまかすために必死に笑顔を作った。多分うまく笑えていない。全てがギクシャクしてしまう。

 私は情けなさでカクン、カクン、カクンと頭を垂れた。


 泣きたい。でも20年は無理。


「ぶっ」

 真奈が堪えきれずに吹き出す音が聞こえた。


 顔を上げると真奈が目に涙を溜めながら面白くて仕方がない様子で身体を震わせていた。ククッククッとときおり声を漏らしながら。


「うん、友達になろう。静子って呼ぶね」

 真奈は身体を震わせながらうわずった声でそう言った。

 私の脳はその言葉の意味を理解するまでに数秒掛かり、理解したあとは一気に興奮で満たされた。


「じゃあさ、じゃあさ!」

 ものすごくみっともない姿はすでに見せてしまっている。自分を曝け出すことに少しのためらいもなく、一方的に自分の話を真奈に投げかけていた。


 自分の性格のこと、家族のこと、最近父親に無性に苛立つこと、家で飼っているウサギのこと、昨日テレビで見た恋愛ドラマのこと、主演の俳優がバスケ部の先輩の誰々に少しだけ似てること、中間テストの数学の結果が悪かったこと。


 不思議だ。他のクラスメイトとはしたくもないと思っていた話を真奈には無遠慮に出来てしまう。やはり私は自分勝手だ。


 真奈は絵を描きながら、楽しそうに相槌を打ってくれた。それだけで私は、私の全てを受け入れてもらえていると思った。嬉しかった。


 真奈は私の問いかけにはあまり多くを答えてくれなかったが、父母と3人暮らしであることと海が好きだと言うことは話してくれた。


 そういえば。気になっていたことを聞いてみた。

「何で雑木林を見ながら海の絵を描いてるの?」


 画用紙に走らせる真奈の鉛筆が一瞬止まる。真奈は私に顔を向けて少しだけ微笑み、何も言わずに再び画用紙に向き合った。悲しみが伝わってくる、そんな寂しい微笑みだった。


 聞いちゃまずいことだったかな。


 それ以上の深追いは辞め、一瞬の空白の時間をなかったことにするかのように、また取り留めもない自分の話を続けた。


 15時のチャイムが鳴った。

 その音で、今が写生大会の時間であることを私は思い出した。集合時間は15時30分じゃなかったか。それまでにスケッチを仕上げて集合場所に戻らなければならない。雑木林の前に戻ってきてから話をするのに夢中で、一本の枝も描き足していない。


 まずい。

 急に静かになり画用紙に集中し始めた私をよそに、真奈は画材を片付け描き終えた画用紙を丸めていた。


「私、先に集合場所に戻ってるね」

 心なしか真奈の声には薄ら寒い響きがあった。


「ちょっと待って。すぐ描き終えるからもう少し」

 慌てた私は真奈を呼び止めようとするも、真奈は私に背を向けて歩き始めていた。


だめだ、集中しなきゃ。終わらない。


「静子!」

 名前を呼ばれ慌てて振り向くと、少し先でこちらを向いた真奈が指で自分の目を指していた。


「集合場所に戻る前に、もう一度目を冷やしたほうがいいかも!」

 よく通る声で私にそう伝えた。


「ありがとう! そうする!」

 私は再び画用紙に向き合い、スケッチの続きに取り掛かった。


 ようやくまずまずのものが描けた。

 真奈のアドバイスを守って目を冷やす時間はなく、集合場所に着いたのは時間を10分過ぎたころだった。


 先生にかなり怒られることを覚悟していたがむしろ心配され、保健室に行くかとさえ聞かれた。大丈夫です、とやんわり断るとそこで解散になった。


 クラスメイトの子達も、どうしたの? 大丈夫? と声をかけてくれた。話続けたせいで声が再びガラガラになっていたからかもしれない。平気平気、と伝え、視線を校舎へ向かう生徒達に向けた。


 真奈はどこだろう。

 なかなか見つけられなかったが、移動する生徒達の少し後ろに、顔をうつむかせてひそりと歩く真奈を見つけた。教室にいたとしても気づかない、今日出会う前の真奈の姿だった。

 私は真奈の様子が気になったが、ここからでは走らないと追いつけない。


 後で話しかけに行こう。


 クラスメイトの心配をかわしながら、トイレに顔を洗いに行った。


「え、嘘でしょ……」


 鏡に映った自分の顔を見て愕然とした。私はこの顔で、真奈に友達になろうと言ったのか。むしろ真奈の胆力に感心してしまった。


 私の両瞼は、目と眉毛の間に明太子が乗せてあるかと思うほどに、赤く大きく腫れ上がっていたのだった。

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