第2話 友達 – 2

 1日の授業が全て終わり、ホームルームの時間だ。先生の話が長い。学校美化について。誰だ、教室の隅にゴミを丸めて投げたやつは。なんで今日に限って。

 早く終われ、早く終われ、早く終われ! 

 ホームルームが終わるとすぐに隣のクラスに向かった。


「吉野真奈さんは?」

 声にむき出しの棘が突き出ていた。

 真奈はホームルームが終わるとすぐに教室から出て行ったらしい。つい先ほど下校したようだ。


 私の苛つきは焦りに変わっていた。たくさん話したいことがあるのに。たくさん聞いてほしいことがあるのに。なによりもあの雑木林の絵のこと。なんでああなるの? 全部話したい。話さないと気が収まらない。


 走ればまだ追いつけるかもしれない。帰り支度もせず、そのまま校門に向かって走った。

 下校開始直後ということもあり人影はまばらだったが、その中に真奈はいない。


 校門を抜けて周囲を見渡すと、右手の急な下り坂の50メートル辺り先を、目立たぬよう足音を消すように歩いている女の子の後ろ姿が見えた。

 多分、真奈だ。いや、絶対に。


「真奈ー!」

 大声で叫んだ。

 女の子は一瞬、歩みを止めたように見えた。


 やっぱり真奈だ。

 全力で下り坂を駆け降りる。脚がもつれて転びそうになる。何とか足を踏ん張りながら転がるように駆け降りた。心臓が止まりそう。血管が激しく脈打つのが分かる。


 真奈、そこで待ってて。聞かなきゃならないことがある。

 おかしいでしょ? 納得いかないよ!

 激しくなる呼吸が真奈に対するイライラに拍車をかける。


 真奈の姿に近づき、勢いが止められずにそのまま追い抜いてしまった。

 ようやく止まれたところから後ろを振り返り、真奈に向かって坂を登る。呼吸を整えながら。言いたいことを整理しながら。


 だが真奈の顔を見ると頭の中が白くなっていく。真奈は出会ったあの時のように目を伏せていた。


 私は真奈に何を言いたかったんだっけ。

 そうだ、私が風邪を移したんだ、ごめん。

もう体調は大丈夫? それと、聞いてほしいことがたくさんあってね、最後に会ってから1週間も顔を見れなくて、真奈ともっと話したくて。


 真奈の海の絵が見つからなくてね、探したんだけど。どんな色で描かれるのかすごい楽しみにしてて。


 そうだ。

 あの「なんでもない」雑木林の絵のことを話したかったんだ。


「真奈! あの雑木林の絵——」


「静子」


 小さな声だが、耳の奥に冷たく響く真奈の声。キンキンキンと鼓膜を震わす。

 テレビで見たことのある水琴窟の細かな甲高い響きによく似ている。


 整え終わらない呼吸が止まる。背筋に冷たい汗が一筋流れるのが分かった。まるでゴルフボールくらいの大きさの氷を丸飲みさせられたようだ。

 気管が狭まる。言葉が出てこなくなった。


 真奈の顔にはどんな表情も見つからない。

だが私をまっすぐ見据える視線は私を貫くつららに見えた。

 私の発言を許さない、氷の顔。


 真奈が口を開く。

「静子。私に話しかけないで。私のことを人に聞くのもやめて。私は静子と話さない」


 今、何て言ったの? 

 私の口が何か言おうとした時、真奈が続けた。

「いい? 私は静子と友達。ずっと友達、多分。だから、私には関わらないって約束して」


 言いたかった言葉が殺されていく。

 うぅ、とか、ぐぐっ、とか、そんな音が出るのを喉が抑え込んでいた。拘束されて身動きを禁じられた声帯は、自分の価値に疑問を感じていてる。震えることをやめてしまった。


 訳がわからないよ、真奈。


「約束を守ってくれないのなら」


 数秒の沈黙。


 私には長く長く感じられる沈黙。真奈にはどれくらいの長さに感じられているのだろう。


「私は静子と友達ではいられない」

 一瞬だけ真奈の目が歪んで見えた気がした。感情を押し殺した名残り。


 手がかじかむ。走ったおかげで身体は熱いのに、今私から流れているのは冷や汗だ。顔から血の気が引くのが分かった。


 真奈が深呼吸するのがぼんやりと目に映った。

「私は来年も再来年も、写生大会の日はあの雑木林の前にいるから」


 真奈はそう言い、踵を返して坂道を降りて行った。先ほどよりも少しだけ早いスピードで。

 だんだん小さくなっていく真奈の後ろ姿は、曲がり角を曲がったのか唐突に見えなくなった。


「あーーーー!」


 解き放たれた声帯が、間の悪い仕事をした。今更声が出たってどうしようもないのに。


 私はそれからどう家に帰ったかあまり覚えていなかった。ご飯を食べている時も、父親に小言を言われている時も、お風呂に入っている時も、頭の中は薄い霧が張ったようにぼんやりしていた。


 寝る準備を整え、ベッドに寝転がった時に急に頭が冴えてきた。


 私とは話さない。真奈はそう言った。

 嫌われた? 私が何かしただろうか。怒らせるようなことを言った? そんなはずはない。一言も声を出せなかったのだから。


 じゃあ写生大会の日、雑木林の前で私が迷惑をかけたことを、実は怒っている? 


 でも、友達だと言っていた。ずっと私たちは友達だと。多分、と言う言葉は付いていたけど。


 友達だけれど、私とは話さないの? それって友達なの? 仲良くならないようにするのが友達なの? そんな友達ってある? 


 真奈が何を考えているのか全然分からない。


 ただ思いつくのは、真奈には何か大きな秘密がありそうだということだ。

 初めて会ったあの日、海の絵を描いている理由を尋ねた時の寂しげな笑顔。今日私に向けた歪んだ目。私にはそれは辛そうな目に見えた。


 そのどちらも秘密を守るためではないのか。そして真奈は、その秘密を解いてしまうことが私と真奈の関係を壊すものだと考えているのかもしれない。


 私が知っていいようなことじゃないのかもしれない。友達だとしても。いや、真奈の考えでは「友達だから」なのかもしれない。


 聞いて確かめたい。はっきりさせたかった。明日にでも真奈の教室に乗り込もうか。いや、また帰り道で真奈を捕まえる方が確実かもしれない。


 頭の中で真奈に面と向かって問いかけるイメージをした時、私に浴びせかけられるあの冷たい目と声を想像して背筋が強張った。


 真奈は多分、本気で怒る。そして私の友達を辞める選択をする。


 空にしたはずの心に再び澱みが溜まっていくようだった。訳のわからないことを言う真奈にむしゃくしゃする。雑木林の絵を描いた真奈にむしゃくしゃする。


 目を閉じ、何度か大きくため息をついた。胸が苦しくなるほど息を吸って吐いく。海に潜る前の準備運動みたい。真奈の海の絵が頭の中に浮かんだ。気持ちが少し落ち着いてくる。


 私と真奈は友達だと言ってくれた。ずっと友達だと。


 訳が分からないけれど、今はその言葉を信じようと思った。友達だと思ってくれているのであれば、きっとそのうち真奈からも私に話しかけてくれるに違いない。


 真奈が抱えているであろう秘密。私ならその半分を背負うことができるのだ。真奈の心に寄り添う私。真奈もいつかそれに気づくはずだ。


 私はとりあえず待つことを決めた。自分の考えを押し付けることは良くないことだ。

 だって私たちは、友達だから。友達ってそういうものでしょう?


 空のコバルトブルーに少し黄色が滲み始めていた。海の底から上を見上げたみたいだ。だがそこにはイワシもイルカもダイバーも、何一つ見当たらなかった。

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