第3話 お菓子

 私と真奈は不思議な関係だった。

 学校で顔を合わせても言葉を交わすことはない。廊下で真奈とすれ違っても互いにそのまま素通りするだけだ。


 真奈はいつも目を伏せていたが、ときおり視線が合うと言葉にも文字にもできない感情が行き交った。


 お互いがお互いの存在を認め、受け入れる合図。それはほんの1,2秒のやり取りだが、そのわずかな時間にいろんな思いがこもった。

 でもそれは言葉にすると、「うんうん」とか

「そうだよね」とかまるで脈絡もなく何の意味もなさない。


 私はいつも話しかける言葉を探していたが、真奈の様子を窺い、その言葉を飲み込んでいた。真奈から話しかけてくれる気配はなかった。


 真奈は相変わらずいつも一人だった。あの日以来真奈の教室に入ることはなかったが、たまに廊下から見える真奈の席はいつも空席だし、真奈がいたとしても一人窓の外を眺めていた。


 真奈は何を思っているんだろう。何を考えているんだろう。わずかな視線のやりとりだけでは測ることが出来ない。


でも今は。真奈と話したいこと、真奈に聞きたいことをたくさん溜めておく。


 写生大会の日には雑木林の前にいる。真奈はわざわざそう言ったのだ。その時であれば、私と話してくれるのだろう。


 来年の初夏。それが私と真奈の間に交わされた約束なのだ。多分。



***



 明日は写生大会だ。


 何か真奈を喜ばせることは出来ないか。私は悩んだ末にクッキーを焼いて行くことにした。誰にも見つからないようにこっそりとポケットに潜ませて。先生に見つかるときつく叱られる上に没収されてしまう。


 お菓子作りは子供の頃から母から教わっていて、あまり目立った趣味のない私の唯一の特技だった。


 バタークッキーとチョコとナッツのクッキー。


 いつも家族にしか焼かないから人の評価はわからない。でも母はおいしいと言ってくれる。父はおいしくないものにははっきりとまずいという人だけど、私のクッキーは無言で食べている。だからおそらくおいしいのだろう。


 最近ではいただきますも言わず無言で食べて感想も言わない父に腹が立つから、お菓子を作っても父にはあげないけれど。


 真奈は甘いお菓子は好きかな。ひょっとしたら苦手かもしれない。念のためポテトチップスを持って行った方がいい? だめだ、ポケットに入らない。


 私は真奈のことは何も知らない。何も知らない相手が喜ぶものを作るのはとても難しい。甘いものが苦手な場合を考えて砂糖は控えめにしよう。でもそのままだと見映えのしない味になる。


 考えてもアイデアは浮かばない。図書館に行き、参考になる本を何冊か借りてヒントを探した。


 取り入れられそうな工夫としてバタークッキーにはオレンジピールを少し加え、チョコナッツクッキーは普段使うアーモンドにココナッツとヘーゼルナッツを少し混ぜた。そうすることで甘さが控えめでも鼻から抜ける香りが楽しめる。食感も良くなるはずだ。


 普段バターは常温に戻したものを使っていた。口どけの良いサクサクした食感になるからだ。だが今回は冷たいものをフードプロセッサーで材料と混ぜることにした。そうすることでバターの香りがダイレクトに伝わりやすいらしい。甘さを控える分、材料の風味を楽しめるような味にできるかもしれない。


 クッキーを焼きながら、私は胸の痛みに耐えていた。緊張している。初めて一人でクッキーを焼いた日を思い出す。小学3年生のころだ。

 母に食べてもらいおいしいの一言を聞くまで、心臓の音が隣の家まで響いてしまうんじゃないかと胸を必死に押さえていた。


 今は中学二年生になったから分かる。どんなに心臓が鳴っても隣の家に響くことはない。

 それでも隣の部屋にいる母には聞こえてしまうかもしれない。苦しくなる胸を押さえるしかなかった。


 おいしいと笑って言ってくれる真奈の顔と、気まずそうに私に気を遣って笑う真奈の顔。どちらもが頭に浮かび、何も考えることができなくなる。


 チンッと鳴るオーブンの音に現実に引き戻された。オーブンのドアを開けて焼き上がりを確認する。


 うん。悪くない。


 味見をしてみる。とてもおいしい。こんなクッキーを焼けるなんて。私って天才かもしれない。


 少し迷ったが、母に味見してもらうことにした。バタークッキーをひと齧りした母は目を丸くした。

「ねえ、好きな人でもできた?」

 ざらっとしたセメントみたいなため息が出るような感想だったが、とてもおいしいという意味だと解釈した。

 よし。やはりポテトチップスを持っていくのはやめておこう。


 形の良いものを数枚を包んで小袋に入れ、ポケットに入れられる大きさにまとめた。


 準備は整った。


 明日、真奈に会えると思うとなかなか寝つけなかった。子供の頃の遠足の前の日みたい、バカみたいだな、私。勝手に頬が緩んでしまう。


「ねえ、待って。もし真奈が来なかったらどうしよう?」


 頬の神様が突然ダイエットを始めたのか。たるんだ頬の私は、考えたくもない一言にいきなり突き刺された。頬がこわばり、引き締まる。


 確かにはっきりとした約束なんかしていない。でも……会えないなんてことある? 真奈から写生大会の話を出してきたんだし。いや、でも……。


 私が眠りに落ちたのは布団に入ってから数時間後のことだった。

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