第4話 写真
来ないかもしれない人を待つことは私にはできなかった。私はずるい人間だ。
雑木林に向かう道を、無意味な道草を食いながらわざわざ10分ほどかけて歩いた。
緩い坂を登る。登り切ったところで下を見渡せば、真奈がいるかいないかは一目で分かる。
めまいがする。昨日あまり寝れなかったからかな。自分の臆病を寝不足のせいにする。真奈がいなかったら、私はこの坂の上で死んでしまうかもしれない。
足を前に出すのが怖い。膝がうまく曲がらない。息が苦しい。
深呼吸を繰り返しながら坂の上を目指す。
——私は走った。
自分でも驚くくらい唐突に。
真奈がいたのだ。去年と同じ場所に。去年と同じ後ろ姿で。
大声で名前を呼びたかった。でもやめた。真奈の隣に行くまでは続く、真奈との約束。
私が走る音に気づき、真奈が振り返った。口を横に長く引き伸ばしたあの笑顔をしていた。
真奈の前にたどり着き呼吸を整える。
「私、クッキーを焼いてきたの!」
第一声がそれなの、私……。恥ずかしくなった。
一瞬の間をおいて真奈が吹き出す。
「そうなんだ。ありがとう」
私も釣られて笑う。まだ息が整わない。変な笑い声になった。
大したことでもないのに、2人でお腹を抱えて笑った。
そうだ。私は真奈とこういう時間を過ごしたかったんだ。
聞きたかったたくさんのことも、自然に見ない振りができている自分がいた。
今は、真奈とたくさん笑っていたい。
真奈の隣に座り、画材を整える。2人で雑木林を描きながら取り留めのない話をした。
去年の写生大会で私の風邪を移してしまったことを謝った。真奈は一瞬沈黙したが、すぐ元気になったから大丈夫、と笑いながら言ってくれた。
真奈と話せることに浮かれていた。真奈の顔がかわいい、もっと前髪を切って顔を出した方がいいよ、と前髪の形の話をしつこくした。
真奈は、うんうん、ありがとう、と聞き流して相手にしてくれなかったけれど。
相槌でも返事をくれることが嬉しかった。
真奈にクッキーの小袋を渡す。真奈はクッキーを一枚食べ、驚いた視線を私に向けた。
「本当に静子が焼いたの? こんなにおいしいクッキー、食べたことない」
真奈は貴重なものを食べるように、少しずつクッキーをかじっている。
真奈は甘いものが得意ではなかった。砂糖を控えめにして良かった。
真奈がどんな味が好きか分からなかったら、こんな工夫をしてみたんだという話をした。
言い終わった後に、押し付けがましいことを言ったんじゃないかと心に滲む不安。
でも真奈はうなずきながら真剣に聞いてくれていた。
「静子、自分では気にしていないのかもしれないけれど。私はそれってすごい才能だと思う。本当に」
心からの言葉に聞こえた。
「クッキーを作る才能?」
真奈にとても褒められた。そう思った私は照れ隠しに少しおどけた声で聞いてみた。
「クッキーを作る才能もすごいと思うんだけど。人のことを考えて、一生懸命できることを探して、まっすぐで。うーん……ごめん、どう言っていいか分からないんだけど」
才能。私にそんなものあるのかな。
ピンと来ない言葉だったが、真奈が喜んでくれたことが心を温かくする。嬉しかった。
去年は話すことに夢中になりすぎて時間通りに集合場所に戻れなかった。今年は楽しく話しながらもきちんと手を動かせている。
描いている絵は去年とあまり変わらないけれど。
真奈の画板に目をやった。雑木林だ。去年廊下に貼り出されていた、あのみんな同じ顔をした木々。
私は少し迷ったが、真奈に問いかけた。
「真奈。答えるのが嫌だったら答えなくていいんだけどさ」
真奈が少し身を固くしたのが伝わってくる。
「今年は海の絵、描いてないんだね」
私は自分の声が少し震えていないか気にした。
「うん」
辺りの空気が冷えた。
「去年の真奈の海の絵、私すごい好き」
「うん」
「あの絵、色って塗った?」
「塗ったよ」
その答えに、私の体温は急激に上がった。
「うそ? どんな感じになった?」
「どんなって。青くて——」
「だよね! 黄色は? 緑も使った?」
「うん」
「そうだよね! 絶対光の部分に黄色と緑は使ってると思った。あとは? イワシはキラキラしてる? 白を使ったの?」
真奈の返事が止んだ。空を見ている。
沈黙——。
私は真奈の沈黙に引き摺り込まれた。耐えられず、下を向く。
何かを喋らないと浮き上がれない深い場所に沈んでしまう。
言葉を繋げようと顔を上げた時、寂しそうに微笑んだ顔で私を見る真奈と目が合った。
「静子はなんであの絵がそんなに好きなの?」
言葉に詰まる。なんでなんだろう。いや、なんで好きなのかは分かっているのだ。ただ、どう言えばそれが真奈に伝わるのかがわからなかった。
言葉をたぐる。だめだ。頭で考えて取り繕った言葉じゃ、口から出た瞬間に全く違うものに変わってしまいそうだった。
だから私は、何も考えずに私自身をそのまま言葉に変えた。
「去年真奈のあの絵を見た時にね、あの絵の中のイワシとかイルカとかを見た時、イライラした気持ちがあってもいいんだよって言われた気がしたんだ。私はそれまで、私の全部がだめだって思っていたから。それでもいいんだよ、って言われた気がしたんだよね。
真奈から、言われた感じがする」
真奈の顔を見る。真剣に聞いてくれている。
ちゃんと伝わっているか不安だがその気持ちを押し殺す。
「そうしたらね。これまでよりも自分のことが少しはっきり見えた気がしたの。ようやく私のことが自分で少し見えた、こんな形してたんだ、って思ったの。今まで全然分からなかったんだけど。私ってこんな感じなんだって分かって、やっと私が私になれたっていうのかな。
だから私はあの絵が好き。色がついたあの絵を見たら、私どうなっちゃうんだろうって思うけど、私はそれがすごく知りたくて。……ごめん、何言っているか分からないよね」
真奈はまた顔を空に向けている。
だが目を閉じていた。強く。瞼が震えるほど強く。
私は真奈が何か言ってくれるのを待った。何も言ってはくれないのかもしれない、そう思うほどその時間は長く感じた。
「——あの海の絵はね。私の叔父さんが海の中で撮った写真を絵にしたんだ」
真奈が唐突に話し始めた。目は緩く開かれている。
真奈が絵のことを話してくれることを私はあまり期待していなかった。とても驚いたけれど、それを顔に出さないよう気をつけながら耳を傾けた。
「叔父さんはプロのカメラマンだったんだけどね。海に潜って写真を撮る仕事をしていたの。優しくて、面白い話をたくさんしてくれる人で。
『真奈ー、今度の写真はすごいぞー。』って、いろんな海の写真を私にくれたんだ。忙しくて会えない時は封筒に写真をたくさん入れて送ってくれたりしてね。
ウミガメをすぐ真横から撮っている写真とか、イソギンチャクの中で子供の世話をしている魚の写真とか。
あの海の絵は、その中で私が1番好きな写真なんだよ」
真奈はまるで空にその写真を見ながら話しているようだった。うっとりとした目をしていた。
「すごく素敵な写真なんだね」
真奈がうなずく。
空を見上げた真奈の横顔を風が撫でていく。長い前髪が横にはらわれ、真奈の顔が露わになった。うん、やっぱりきれいだ。すごく。
「今度私にもその写真を見せて。見てみたい」
答えは返ってこなかった。真奈は空を見上げ続けている。
手持ち無沙汰になった自分をごまかすように私は言葉を続けた。ただ、続けた言葉は本心だ。
「じゃあさ、いつかでいいから。色を塗った真奈のあの絵を見せてほしい。学校を卒業したらでもいいし、高校生になったら、大人になったらでもいい。
真奈が見せたいって思った時でいいから」
真奈はゆっくり私に顔を向ける。
「うん、わかった。
……静子、話してくれてありがとう」
これまで見た中で1番優しい微笑みで、真奈は私にそう答えた。
私が真奈の絵を好きな理由は、そこまで悪くなかったようだ。
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