第5話 夢 – 1

 2年目の写生大会のあとから、私はお菓子作りに没頭し始めた。


 真奈は私に才能があると言った。私はそれが何のことを言っているのか、まだ分からない。お菓子作りのことなのか、それとは別なことなのか。


 でもあまり褒められる要素のない私に、真奈はそう言ってくれたのだ。

 真奈の言うことなら、私は全て信じる。

 真奈が褒めてくれた私のことを、私は信じた。


 だから、まずはお菓子作りに打ち込むことにした。

 なによりも来年、真奈にまた喜んでもらいたかった。そのためにはもっと腕を上げなきゃ。


 平日に2回はお菓子を作った。休みの日は毎日作る。夏休みに入ると始めの1週間、毎日お菓子を作り続け、2週間目の朝に悲鳴を上げた母から週3回までにしなさいと厳しく言い渡された。


 クッキーだけでなくマドレーヌやフィナンシェなどの焼き菓子も作ったし、ケーキも色々なものに挑戦した。パンも焼いたりした。

 お小遣いは全てお菓子の材料に使った。

 いつも味見と称してきちんと食べきってくれる母は、3ヶ月で5キロも太った。


 そのうちに母から、友人に会うときにお土産として焼いてくれないかと依頼されるようになった。もちろん引き受けた。母の依頼の時は材料費を母が出してくれる。


 ダイエットを始めた母が、食べきれないお菓子を近所の親しい人たちに配るようになった。

 私が作るお菓子はちょっとした評判になり、すれ違うご近所さんから声をかけられ、直接お礼とお菓子の感想を言われることが多くなった。


 私はそれをメモしながら、お菓子についての意見交換をして次に作るお菓子のイメージを膨らませるのだ。そして、その人に喜ばれるお菓子を頭を悩ませながら作った。

 工夫を凝らしたお菓子が褒められると、私は言いようのない満足感が得られた。


 いつしかご近所の方からもお菓子を焼くことを頼まれ、材料費としてかなり多めのお金をいただけた。お釣りは私のお小遣い。それも全部お菓子のために注ぎ込んだ。


 秋の初めには、私は夢を持った。将来パティシエになり小さくてかわいい自分のお店を持つことだ。

 頑張って作ったお菓子で人が喜んでくれることがなによりも嬉しかった。

 それは真奈から教わったことだ。


 夢のため、普通の高校に進学して、大学に進むための勉強をするという選択肢は私には一切考えられなかった。

 中学卒業後は、都会にある製菓科のある高校に行くことを心に決めた。

 私の住んでいる県には希望の学校がなかったのだ。


 だがそれを、頭の固い世間体ばかりを気にする父が賛成するとは思えない。1人でどんなに考えても説得する妙案が浮かばないため、母に私の夢を打ち明け、協力者になってもらえないか相談をしてみた。


 「そんなこと言い出すんじゃないかと思ってたわよ」

 母は意外にもあっさりと私の夢の理解者になってくれた。これ以上味見係を続けさせられたら、後戻りできないくらい太っちゃうからホッとしたわ。そんな小言で応援をしてくれた。

 父の説得の仕方については、明日の夜にお父さんに時間を作ってもらうから、そこで話してみたら? という頼りない返事だった。


 翌日の夜、案の定、父は猛烈に反対した。大学を目指せる高校を卒業しなさい、大学は出なさい、それしか言わない。ますます父が苦手になった。


 父はこの地方の県議会議員の秘書だった。世間体についてあれこれうるさい理由もその仕事が一因だ。自分が周囲の人々からどう見られるのかが全て。十数年後には「先生」と呼ばれる立場になるのかもしれず、ひょっとしたら将来、私を秘書にでもしようとしているのかもしれない。


 私の夢に反対する父と真っ向から対立した。

 母は話し合いの成り行きを見守っているだけだ。助け舟も出してくれない。


「私がやりたいことを見つけたって言っているのに、どうして応援してくれないのよ!」

 私は父に対して怒鳴った。この人とは最近まともな話し合いになることはほとんどない。


「静子が言っているのは趣味の話だろう。ご近所の人にちやほやされて、それを仕事にするだなんて非現実的な夢を持つんじゃない。

 いいかい? 将来のことというのは、もっときちんと考えなければならないことなんだよ。そしてそれには時間がかかるものなんだ。

 だいたい、静子の作るお菓子が世間に受け入れられる訳がないだろう。」


 淡々と、私の夢が馬鹿にされた。

 喧嘩を売られた。父だからって言っていいことと悪いことがある。

 頭に血が昇った。それどころか、血は脳天を突き破って頭から吹き出している。そうに決まっている。父と母には血しぶきで赤に染まっていくこの部屋が見えていないのだろうか。


「お父さんみたいな人にお菓子の美味しい不味いが分かるわけないでしょ!」

 喉が潰れるような大声で怒鳴った。

 嫌い。私はお父さんが大嫌い。


「はい、そこまでにしましょう」

 突然母が両手をぱちんと合わせて、気の抜けた声で言った。

「じゃあ、静子。お父さんにお菓子を作りなさいよ。お父さんが心から美味しいっていうものができるまで。お父さんを納得させられなければパティシエの夢はあきらめなさい」


 唐突な提案に私は言葉が出てこなかった。

 母は父に向き直った。

「いい? お父さんは責任を持って静子の作るお菓子のテストに付き合うこと。おいしいと思うものができたら、正直においしいと言うこと。ずるはなしよ」


 父は少しの間黙ったが、無表情な顔で「わかった」と言うと部屋から出ていった。

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