第10話 裏切り – 2

 真奈は黒のワンピースの上にネイビーのダッフルコート。深い緑のマフラーを巻いていた。


 地味だ。目立たない格好。でもそれが真奈によく似合っていた。きれいだった。

 美しい宝石だって、採掘されるまでは地味で目立たない母岩の中に隠れている。

 装いが地味であるほど、それは真奈の透けて消えてしまいそうな白い肌を際立たせる演出になる。

 だが次の瞬間には真奈の瞳に冷たい光が宿っていた。


 そうだ。私は真奈の前で普通の顔ができない。普通の顔をしてはいけなかった。

 慌てて目を伏せる。冬の空気が目の前で更に冷たく張り詰めていくのが分かる。

 真奈が手に持っている何かが目に入った。


「それ、私の財布。失くして探してた」

 真奈の目が一瞬だけ揺らぐ。人と関わることの後悔が滲み出たような揺らぎ。

 私の顔を冷たい目で見ながら、真奈は無言で財布を私の前に差し出した。

 私は財布を真奈から受け取った。私の手は震えていた。


 真奈は財布を拾って社務所に届けようとしてくれたんだ。

 拾ったものは交番に届ける。5歳でも知ってる常識だ。神社の中に交番はない。届けるとしたら社務所だろう。


 真奈がしようとした当たり前のことに、私の心は激しく揺さぶられた。私のものだと分かっていたら拾わなかったかもしれない。見て見ぬ振りをしたかも。

 いや、真奈は絶対に拾うだろう。私の目につかないように、周りに私の姿が見えないことを確認してから社務所に届けるだろう。そして名前も告げず立ち去るのだ。


 真奈は、私の友達なのだから。きっとそうする。私を真奈の抱える苦痛に巻き込まないように。


 何ヶ月も堰き止められていた気持ちの激流が堤防を断ち割って、この神社の境内を余すところなく満たしてしまいそうだ。その流れに私は溺れるんだ。溺れてもいいと思った。真奈と一緒なら。堤防に楔を打つ。水が流れる穴を作る。一つ小さな穴が開けば、後は身を任せるだけで構わない。こんな自分なんてもう壊しても構わない。


「真奈。私ね——」


「静子!」

 今、この時だけは一番聞きたくない声。駆け足で私に向かって迫ってくる大人の足音。

 父が社務所から出てきたのだ。


 切らした息は整わないまま、平静を装う父の声。

「静子と同じ学校の子かな? いつも静子と仲良くしてくれてありがとう」

 白々しいことを言う。


 思ったよりも整っていない自分の声に驚いたような父は、少し間を置いて真奈に声をかけた。

「私たちはこのあと急ぎ行かなくちゃならないところがあってね。話の途中で申し訳ないのだけれど。今年も静子のことをよろしく頼むね」


 父は早口でそう言うと、私の肩を抱えて真奈に背を向け歩き出した。

 父の肩に抱かれ、意識が少しずつ遠のく。

 このままでいいの? 私が思っていることを真奈に伝えなくていいの? 私はいつまで真奈の気持ちを踏みにじるの? 

 いやだ。いやだ。卑怯なままの自分はもう嫌だ。絶対に。


「待って」

 小さく吐息のような声が出た。

 うん、意識は保てている。

 だけど父は聞いていない。


「ねえ、待って」

 はっきりとした声。大丈夫。ちゃんと言える。


「待ってよ!」

 足を踏ん張った。

 父が力任せに引き寄せてくる腕を払いのける。


 真奈の方を振り返った。真奈は黒とネイビーの鎧に守られた氷の妖精みたいだ。

物陰に入ればすぐに姿が見えなくなりそう。そして二度と見ることができなくなる。私はもうその姿を見失いたくなかった。


 真奈、今行くよ。

 ふくらはぎが膨れ上がる。あとは足を前に出すだけで真奈のところまですぐに走っていける。


「静子!」

父が大きく叫んだ。


止まる脚。


「約束を破るんだな?」

 背後から父がそう言った。


 父を振り返る。肋骨が折れて内臓に突き刺さったような顔をしていた。

 そんな辛そうな顔で酷いこと言わないでよ。


 再び真奈に振り向き直る。

 真奈は私と父のやりとりをぼんやりと眺めていたようだ。その目には力はない。

 私に注がれる視線も、私を責めるようなものではなかった。真奈が初めて見る顔も知らない人たちが、理由もわからない争いをしている、それを眺めているような視線。

 悪意も敵意もない。ただ私に注がれる、凍るような無関心。


 私は歪んだ瞼を通していびつな視線を真奈に送った。まっすぐ真奈を見れない。

 口の形で「ごめん」とつぶやいた。


 真奈はその私の顔を見ると興味を失ったように私たちに背を向け、まばらな人混みの中に消えて行った。


 堤防を壊して流れ出るはずの私の心は、凍るような寒さにドロドロなシャーベットになって、堤防のヒビを埋めてしまった。

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