第18話

 七月二十五日の夜、私は思い切った新たな行動に移そうとしていた。

『今日の夜は絶対に外を出歩かないでね』

『どうしてですか?』

 前回と同じように私は佐伯君に外に出ないよう説得していた。だがこのやり取りで何も変えられないことはわかっている。何を言ってもこのあと彼は外に出てしまうのだろう。それでも念のため、念入りに説得を重ねていた。

『先輩の方こそ、気を付けてくださいね』

『いい? 絶対よ。絶対に外には出ないでちょうだい』

 できる限りに強い言葉で念を押したが、返ってきたのは親指を立てた鳥のスタンプ一つだけ。これは効いていないなと思った私は次の行動に移した。

 彼は今日、彼の住んでいる町の橋で通り魔に襲われる。前回報道されていたことを今回はしっかりと聞いていてその内容は覚えている。

 彼の家から近くの橋を調べ、私は家を飛び出した。被害に遭うのがいつかはわからないが、今から向かえばまだ間に合うはず。私は少ない体力を振り絞って息を切らしながらその場所へと向かった。

 時刻は午後九時頃。肩で息をしながらたどり着いたそこには、橋の上を一人歩いている佐伯君の姿があった。

「間に合った……」

 声をかけようとしたその時、彼の前方から黒いフードを被ったいかにも怪しげな人が歩いてきた。顔はフードに隠れて見えず、男か女か判別がつかなかった。体格的には男のようにも見えるがどうだろうか。と思ったその時、その人は徐々に歩く速度を上げ、佐伯君の下へと一直線に走り出した。

 ポケットから出した手にはナイフのようなものが握られているのが見えた。そうか、あいつが通り魔 の…! 

 佐伯君は手に持ったスマホに目を落とし、猛烈な勢いで近づいてくるその人に気づく様子が全くなかった。急いで彼の下へ向かわなければ。けれど、これまで全速力で走ってきたせいか、足の震えが止まらず動き出すことができなかった。せめて声をかけるだけでもと思い叫ぼうとしても、私の体は言うことを聞いてくれない。私は恐怖で体が硬直していた。

 私は口を金魚のようにパクパクとさせ、暗闇に包まれた道端でこれから行われる悲惨な事件をただ見ることしかできなかった。

 何もできないまま佐伯君の方を見ていると、フードを被った人と彼が接触し、佐伯君はお腹の辺りを押さえながらその場に倒れこんだ。彼の鮮血が道路をじわじわと侵食していく。その鮮やかな赤色は暗闇の中、私の位置からもはっきりと見えた。見えてしまった。

「佐伯君…!」

 それを見た瞬間、私はつい叫びながら彼のそばへと駆け寄っていた。

 どうして、今なのだろう。もっと早く動き出せていたら。

 私は佐伯君の無惨な姿に気を取られ、たった今起こったばかりの悲劇の原因となる人物の存在を忘れてしまっていた。

 ドスッと、私の体に激しい痛みと共に衝撃が走った。

 腹の辺りが冷たく、そして生暖かく、経験したことのない痛みを伴っていた。私はそのあまりの痛さに耐えられず、その場に倒れこんだ。

 じくじくと刺された場所が痛み、私の血が体内からドクドクとその開けられた穴から流れだしていくのが分かった。地に着いた私の顔を、流れ出した生ぬるい液体が染めていく。錆びた鉄のようなにおいが鼻を突いた。

 朦朧とする意識の中で、私は佐伯君の名前を呼んだ。

「さえき…くん……」

 当然返事など返ってくるはずもなく、佐伯君は沈黙を貫き横たわったままだった。私の血と彼の血が混ざり合い、さらに道路を鮮やかな赤色で侵食していく。

 結局また彼を救うことができなかった。それどころか自分の身だって保証できないことになってしまった。

 三度目の正直、なんて言っていたが、実際あったのは二度あることは三度ある、だ。私は同じ過ちを繰り返しているに過ぎなかった。何のためにこの三か月を繰り返していたのか、私はわからなくなってきた。何度やっても結果は変わらない。むしろ悪化する一方だ。

 もう、佐伯君を助ける手段は残っていないのだろうか。

 悔しかった。

 何も変えられず、彼を救えなかったこと、あの時もらった彼の言葉に正面から向き合うことができないまま、私も死んでしまうことに。この三ヶ月で私の人生は悔いだらけになってしまった。

 何度やっても変わらないこの現実に、もう私の目に希望などは宿っていなかった。

 もうだめだ。意識が薄れていく。寒い。暑い。痛い。苦しい。死ぬってこんなにも怖いものなんだ。死を目前に足掻こうにも、もう私の体はピクリとも動かない。これほどまでの恐怖が迫っているにもかかわらず、何もできないことが返って私を冷静にさせ、最後の時を静かに待った。

 徐々に光が消えていき、音もなくなり、私はそのまま深い眠りについた。



 背中が温かい。私は助かったのだろうか。いや違う。このぬくもりは……。

 目を開けると私はいつもの教室にいた。私はまた戻ってきたやりなおすのだ。

 それと同時に蘇るあの悲惨な記憶。あの光景と錆びた鉄のにおい、生ぬるい液体の感触が私の脳裏に焼き付いて離れなかった。気持ちが悪かった。吐き気さえするほどに。

 すると後ろの扉が静かに開き、彼が現れた。

「すみません、料理研究部ってここであっていますか?」

 彼の健康的な姿を見て、その無惨な姿が鮮明にフラッシュバックした。

「ごめんなさい、ちょっと待ってて」

 私は一目散にトイレの個室へと駆け込んだ。

「おぇ…っ……」

 腹部がじんじんと痛む。けれど傷など一つもない。私の記憶が私の体を痛みつけていた。あの時の記憶を刻み付けるかのように。そんなものがなくとも忘れることなどできないのに。

 死という恐怖を一度味わえば、常人では耐えることなどできないだろう。無論、私もあの恐怖に打ち勝つことなどできない。

 さらに言えば目の前で佐伯君が殺されるところを目撃してしまった。報道で聞く彼の死と実際にその死を目の当たりにするのとでは、当然だが衝撃が違い、そのショックの大きさで私は立ち直れそうになかった。

 もし同じようなことをすればまたあの恐怖が襲ってくる。そして佐伯君をまた救うこともできないのだろう。何度やっても変わらぬ結果に、私は完全に心が折れてしまった。

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初恋のアネモネ ようよう @yoyo1220

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