第8話
六月十一日、火曜日。私は何事もなく授業を終え、いつも通り部活に向かっていた。ただ今日は何かを作るというわけではない。
お菓子を作る材料が足りなくなってしまったので、必要なものをメモに残し、買いに行かなければならない。ある程度は部費から出してよいということだったので、佐伯君と近所のスーパーまで買いに行くことになった。
「佐伯君は何か作りたいものとかある?」
「いえ、僕はあまりお菓子に詳しくはないので。先輩にお任せします」
「そうね、それじゃあ次はタルトを作りましょうか」
作るものも決まったところで、早速買い出しに行くことにした。
今回足りなくなったのは砂糖と薄力粉、それから牛乳と卵。
それぞれできるだけ安いものを選んでかごに入れていく。部費から出るとは言え、できるだけコストを抑えるに越したことはない。
レジで領収書をもらい、スーパーを後にする。
ここから学校へ戻るのも一苦労なので、佐伯君と手分けして自宅へ持って帰り、明日学校に持ってくることにした。
生鮮食品は私が、それ以外を佐伯君に頼んだ。
途中までは帰り道が同じようなので、しばらく一緒に歩くことになった。
橋を渡り、ギリギリ赤に変わってしまった信号を待つ。
ふと反対車線にある公園へ目を向けると、ここにもアジサイが咲いていた。私は夏葉に聞かれたことを思い出し、何気なく佐伯君にも同じ質問を投げかけていた。
「ねぇ佐伯君、アジサイは何色が好き?」
「え、アジサイですか。そうですね…」
突拍子もない質問に若干狼狽えつつも、佐伯君は答えた。
「僕は紫ですかね。アジサイと言えばというのもありますけど、雨の中水が滴り様になるのは紫が一番似合いそうじゃないですか」
私と同じだった。アジサイの色にそこまで種類があるわけではないが、理由も私と似たようなものだった。
「そうなのね。私も———」
紫が好きなの、同じね。と言おうとしたところで、突然雨が降り出した。
つい先ほどまでは晴れていたはずなのに、どうして最近はこうも突然の雨に見舞われてしまうのだろう。
幸い近くに屋根付きのベンチがあるバス停があったのでそこで雨宿りすることにした。
五分もしないところに私の家があるのだがこの時間母は帰っておらず、家で後輩の男の子と二人きりというわけにもいかなかったため、あえて話さずにいた。もちろん佐伯君に限ってなにかあるとは思えないが、万が一にも何かあってからでは遅い。
しばらくはここで雨が止むのを待つことにした。
私は濡れた髪をほどきながら持っていたタオルで拭き、ベンチに腰かけた。
「そういえば先輩、さっき私も…って何か言いかけてましたよね。何言おうとしてたんですか?」
「え、あぁ…いえ、何でもないわ。アジサイと言ったら紫よねってことを言いたかったの」
「そうですか」
と、佐伯君は話しながら眼鏡を取り、水滴をふき取るしぐさを見せる。
眼鏡を取った姿を見たのは初めてだったため、すごく新鮮だった。
「佐伯君、眼鏡を取ると少し雰囲気変わるわね」
普段はおとなしそうで少し知的にも見えるのだが、もともと顔の造りいいのだろうか、明るい青年の雰囲気が漂っていた。
「え、そうですか?あまり言われたことはなかったのですが」
「よく見ると顔も整っていて綺麗ね。好青年って感じがするわ」
「いや、そんなことはないですよ」
と口では否定していたが、佐伯君は少し照れ臭そうに苦笑いをした。
一瞬の沈黙が訪れたが、気まずくなるのは避けたかったので無理やり話をつなげることにした。
「雨、急に降ってきたわね」
「そうですね」
「すぐに止むかしら」
「止まなかったら濡れて帰るしかないですね」
「……」
何の意味もない会話でなんとか沈黙を避けようと試みるも、結果はこの通り、上手くはいかなかった。私のコミュニケーション能力ではこの場を繋ぎとめることはできなかった。
こんな時、夏葉がいれば沈黙が訪れることはなかったのだろう。
「もしかして先輩、僕に気を遣ってなんとか会話を続けようとしてくれてましたか?」
私の考えていることはお見通しだと言わんばかりに、佐伯君はそんなことを言った。
佐伯君に気を遣ったわけではないが、会話を続けようとしていたことは事実だ。
「僕なら大丈夫ですよ。先輩とは無理に話さなくても、こうしているだけで落ち着くんです。気を遣う必要なんてないですよ」
私には佐伯君の言う無言でも落ち着く、ということが分からなかった。まだ出会ってたかが一、二か月程度。そんなに私といるのが落ち着くのだろうか。佐伯君の周りには気を許せる人がいないのだろうか。
そんなことを考えきょとんとしていると、佐伯君がそれに気づいたのか、目尻をくしゃりとしぼませ微笑んでいた。
眼鏡を外したままの佐伯君の笑顔は、いつもよりも格段にかわいく見えてしまった。
反射的に目を逸らし、視界に入れないよう顔も逸らす。
佐伯君が今どんな表情でどこを見て何を考えているのかわからない。ただ、今の私にはそれを意識する暇などなかった。
気が付くといつの間にか雨足は弱まっており、雲の隙間から日差しが差し込んでいた。
「あ、先輩、雨止んできましたよ」
「え? あ、そうね」
横目で恐る恐る佐伯君の方を見ると、すでに眼鏡はかけていた。
それを確認すると少しだけ安心し、できるだけ平常心を装ってベンチから立ち上がりながら言った。
「それじゃあ帰りましょうか」
家に着くと、どっと疲れが込み上げてきた。今日一日いろんなことがあった。
先日のことと言い、部活のこと以外で佐伯君と二人になるときは注意しなければ。また似たようなことがあった時、身が持ちそうにもなかった。
佐伯君と出会ってから、何かが変わったということはない。今まで通りの日常。そこに関わる人が一人増えただけ。それなのに私の中の何かは二か月前と比べると随分と変わっている気がする。その正体が今の私にはわからないままでいた。
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