窓越しの
切羽詰まったケイの顔が眼前にあった。ぱっと意識が覚醒する。
キャンプから帰宅し、ひと休みしていたはずが、いつのまにか眠ってしまったようだ。
「どうしたの?」
「すみません、私、連れてきちゃったみたいで」
ケイが皿のような形に揃えた両手を、芙弥に差し出す。何か生き物がいるのかと覗くが、ただの手のひらだ。
「連れてきたって、何を?」
「だからこの……あ。見えて、ない?」
芙弥の瞳から困惑しか読み取れなかったのだろう。「そっか、見えないんだ」と、落胆を隠しもせず彼女は独りごちた。
やはり、手のひらの上に何かいるらしい。
「妖精です。キャンプ場から、私が魔力を使ったから、たぶんそれでついてきちゃって」
「ようせい。……妖精?」
「はい。でも、すごく弱ってて。早く帰してあげないと、失われてしまうかも」
「失われる?」
「えっと、命というか存在というか」
「死んじゃうってこと?」
「そう、ですね。私たちで言うなら」
「帰すっていうのは、キャンプ場に?」
「はい」
あの、ごめんなさい。ケイが俯く。
「ううん。大丈夫だから、そんな顔しないの」
ケイの背中をぽすぽすと叩き、その勢いで立ち上がる。時間を確認し、一瞬、思考が停止した。
「もうこんな時間!?」
九時を過ぎている。これは、まずいかもしれない。急いで電車の時間を調べるが、案の定、キャンプ場の最寄り駅まで行く電車は終わっていた。
「ごめん、ケイちゃん。もう電車がないみたい。高速バスを使っても、着くのは明日の朝になっちゃう。それだと、遅い?」
「わからないです、けど」
ケイはそこで言葉を切った。が、続きはおそらく芙弥が考えていることと同じだ。もし間に合わなかったら取り返しがつかない。
他に手はないだろうか。タクシーは、金銭的に厳しそうだ。それなら、レンタカーを借りるほうが安い。今から急に借りられるのか。一番近いレンタカー屋は。そもそも、自分は都内で運転できるのか。思案し、はっとひらめく。
「行けるかも」
目的地を変え、再度電車の時間を検索する。こちらは、終電までまだ余裕があった。なんとかなりそうだ。発信履歴にも着信履歴にも残っていない番号へ、一本の電話をかける。
「もしもし、お父さん? 急にごめんね。今から、そっち行ってもいいかな? 車を借りたいんだけど」
張り詰めた空気が満ちる車内で、ラジオの音が空回っている。
ケイは気が気でない様子で自分の両手に視線を落としたまま一言も発さず、芙弥もまた久しぶりの運転に必死だった。車が多くないのが、せめてもの救いだ。
「あ、看板。もうすぐみたい」
『キャンプ場駐車場』の下に書かれた矢印に従い、県道をはずれた。順路を再検索したカーナビは、大回りして元の道に戻るよう指示を出している。駐車場はキャンプ場から少し離れた場所にあるらしい。ここからは、看板の道案内だけが頼りだ。周りを注視しながら、ゆっくりと車を進める。
立ち並ぶ民家を抜けたところで、また看板を見つけた。右折し、さらに細い道へと入っていく。対向車が来ないことを祈りながら走っていると、だだっ広い空間に出た。地面には砂利が敷かれ、黄色いロープで一定の幅に区切られている。その一画に車を停め、芙弥はエンジンを切った。どっと全身の力が抜ける。
「着いたよ。入れるかわからないけど、キャンプ場の前まで行ってみる?」
駐車場の奥のほうには、木々が茂っている。キャンプ場の雑木林と繋がっていそうだ。
「いえ。たぶん、ここで大丈夫です。あの、ここは、魔法使えますか?」
「うん、大丈夫だと思う」
魔法使用禁止の張り紙はキャンプ場の中にあったし、看板にもそれらしきことは書いていない。
「あまり大きなものだと、近所の人を驚かせちゃうかもしれないけど」
場合によっては、通報される可能性もある。念のためやんわりと注意を促せば、ケイは小さく頷いた。
「気をつけます。フミさんは、ここで待っていてください」
そう言い残して、車を降りる。追いかけようかと思ったが、彼女が目と鼻の先で立ち止まったのを確認し、芙弥は言われたとおり待機することにした。
ケイが、両手を胸の高さに掲げる。ぽうっと青白い光が灯った。妖精の姿が露わになったのかと息を飲むが、光っているのは彼女の腕輪だった。どんな魔法を使っているのか、周囲に変化は見られない。薄闇の中、腕輪が弱く光っては消え、ゆっくりと明滅を繰り返す。
ふと、視界の端に光るものが映った。ひとつ、またひとつと増えていく。動きは蛍に似ているが、もっと大きな光の玉だ。ケイの魔力に応えるかのように白く光るそれは、腕輪と違い、どこか温かみのある色をしていた。
光の玉が、ケイの手元に集まる。手のひらの上でふるふると揺れ、やがて散り散りに飛び立った。まるで綿毛だ。ケイが腕を下ろす。どうやら、はぐれた妖精は助けられたらしい。
風もないのに、銀の髪が舞い上がる。光の玉がじゃれつくようにケイの周りをただよう。翻弄され、くるくると回る彼女は、優しい笑みをたたえていて、楽しそうだ。
幻想的で美しい情景だった。ただ、夏のせいだろうか。光と躍る少女が、この世のものではないように思え、咽喉がひりつく。じっとりと暑い車の中、背を伝う汗がいやに冷たい。
展望台で、ケイは言っていた。魔法を使えなくなれば、人間として生きていかなければならないと。だが、きっとそんな日は訪れない。来月も、一年後も、十年後も、ケイと自分は別の世界を生きている。それが本来の在り方で、ケイにとっても喜ばしいことなのだ。わかっていたはずなのに。悟って、飲み込む。
窓越しの彼女が、芙弥には遠く感じられた。
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