にぎやかな鳥のさえずりで、目が覚めた。

 寝ころんだまま伸びをすれば、芙弥ふみの関節がパキパキと音を立てる。若い子には聞かれたくないなと向けた視線は、体を起こしたケイのそれとばっちりぶつかった。

「……おはよう」

「おはよう、ございます」

 お互いに話題を選びかねている気まずい空気が流れ、どちらからともなく苦笑した。

「顔、洗いに行こうか」

「はい」

 前日とはうってかわって、快晴だ。地面に落ちた木々の影はくっきりと色濃く、照り返す日差しがすでに眩しい。暑くなりそうな予感がする。

 今日は、近くの展望台へ足を伸ばす予定だった。あまり気温が上がる前に移動したほうがよさそうだ。朝食を済ませ、すぐに荷物をまとめる。ゴミは有料で引き取ってもらえたので、来たときよりもだいぶ身軽になった。 

「あの、昨日はすみませんでした」

 チェックアウトの手続きを進める芙弥の横で、ケイが管理人に頭を下げる。

「はいよー。気をつけて帰ってね」

「え? あ、はい、ありがとうございます」

 小言が飛んでくることを覚悟していたのだろう。穏やかに見送られ、拍子抜けしたようだった。安堵が半分、これでいいのかと落ち着かない気持ちが半分、といった様子だ。

 そんなものだよ、と思う。ケイにとっては一晩反省するような出来事も、周りから見ればたいしたことではない。考えすぎだ、もっと楽に生きていい。そう伝えてあげたいが、たぶん無意味だ。出会って二週間ぽっちの他人の言葉に説得力なんてないだろうし、芙弥だって他人の人生に口出しできるほどの責任を持てない。

 たわいもない話をしながら、展望台を目指して歩く。地図アプリで確認すると、芙弥たちがいるのは、海に突き出した場所だった。展望台は、この岬の先端にあるらしい。草木が生い茂っているせいで海は見えず、まるで山道を進んでいるようだ。

 十五分くらい、歩いただろうか。最初に感じたのは、潮の匂いだった。続いて、波の音。それから、木々の間にきらめくものの正体が水面だと気づく。

「あ、あれですか?」

 急に視界が開け、ケイが指差す先にぽっかりと展望台が現れた。

 ケイの歩調が速くなる。頂上まで続く長い階段も、物ともせずに上がっていく。

「うわあ、すごい! 気持ちいいー!」

 屈託のない歓声だった。昨夜のことは夢だったんじゃないかと思えてくる。だけど、残念ながら現実で、彼女は今も弱音を抱えたままだ。

 身を乗り出し景色を見回す横顔へ、ケイちゃん、と呼びかける。

「私、ケイちゃんに、謝らなきゃいけないことがあるの」

 ケイの表情が強張るのを感じ、なだめるように口元を緩めた。

 心の内を知ってしまって、それでも知らないことのほうがまだ多くて。そんな芙弥が話せるのは、芙弥自身のことだけだ。

「会社で夏休みをもらったって言ったけど、実は私、仕事を辞めました」

「え?」

「嘘をついてて、ごめんなさい」

「そ、それって、私のせいですか?」

「違うよ。違う。ケイちゃんは関係ない。ただ、私が嫌になって辞めたの」

 不安げに揺らぐ瞳が、信じられないと主張している。

「早く帰れない日があったでしょう? あの何日かだけじゃなくて、ケイちゃんが来る前から続いてたの。休みの日に、仕事が入ることもあって。業務量が多くてしんどいなって、ずっと思ってた。そんなときに、同僚が私のこと人生つまらなそうって言ってるの、聞いちゃって。べつに、つまらないとは思ってなかったけど、楽しもうともしてなかったっていうか。なんか、なんのために頑張って働いてるのか、わかんなくなっちゃんだよね」

 それで、ぜんぶ投げだしちゃった。

 両手で物を放る仕草をし、大げさに肩をすくめて見せる。なんでもないことのように聞こえてくれていたらいいなと思う。

「たぶん、仕事を辞めることで、臆病な自分を変えたかったの。私ね、新しいことに手を出すのが恐くて。うまくいかなかったらどうしようとか、やらなきゃよかったって後悔したくないなとか、始める前からいろいろ考えちゃうんだよね。それで、いつも動けないの」

 ケイが、どこか痛むように眉を寄せた。身に覚えがあるのだろう。失敗するのが恐くて、波風を立てたくなくて、そういうところが芙弥とケイは少し似ている。

「だけど、ケイちゃんといろんな思い出を作りたいなって考えたときに、私って意外とやりたいことあったんだって気づいて。うれしかったんだよね。餃子を手作りするとか、アイスを食べるとか、本当に些細なことなんだけど。でも、ひとりじゃできなかったの。だから、付き合ってくれてありがとう。ケイちゃんのおかげで、私、まだ人生で楽しいこと見つけられるんだって思えたから。ケイちゃんが、うちに来てくれてよかった」

 ありがとう。と、もう一度重ねる。

 言葉を探すように、ケイの唇が薄く開かれては閉じる。

「うわ」

「あっ」

 ひときわ強く吹いた潮風が、ケイの帽子を飛ばした。「あー!」「待って!」声を上げながら追いかけ、柵に引っかかったところを二人がかりで捕まえる。

「危なかったね」

「よかったです」

 帽子をぎゅうと胸に抱き、彼女は言った。

「私、最初はこっちに来るの、いやでした。見放されたんだって思って。気分転換に、なんてお母さんたちは言うけど、そんなのは口実で。魔法が使えなくなったら、アドウィンシーにはいられないから。このまま私が魔法を使えなくなって、人間として生きなきゃいけなくなったときのための、練習なんだって思ったんです。でも、フミさんと一緒にいるの、楽しくて。魔法が使えなくても、楽しいこといっぱいあるんだってわかって。だから、あの、私も、よかったです」

「そっか」

「はい」

「うん。それなら、よかった」

「はい」

 眺望に目を移す。抜けるような青空に、澄みわたった青い海。その境界は明らかで、同じ青でも溶け合うことはない。けれど。

「ふたりで、楽しいことたくさん見つけようね」

「はい」

 曇り空なら灰色に、晴天なら今日のように、海は空の色を映す。

「あの、じゃあ、私、海岸を歩きたいです」

「いいね! 行こっか」

「はい!」

 ケイがこぼれるような笑みを見せる。きっと今、自分も同じ顔をしているのだろうと芙弥は思った。

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