雷雨

 夏休みが始まった。

「よーし、今日から思いっきり遊ぼう! って、思ってたんだけど」

「雨、ですね」

「どしゃぶりですねぇ」

 外は薄暗く、大粒の雨が窓を叩きつけている。どちらからともなく顔を見合わせ、二人で苦笑した。

 ケイは、芙弥ふみの家で預かることになった。芙弥が、晴れて自由の身となったからである。

 昨日、芙弥は定時きっかりにパソコンの電源を落とすと、荷物をまとめ人事部へ向かった。朝から作成した引き継ぎ資料フォルダの在り処を伝え、退職届を提出。それで、おしまいだった。

 ケイには、早めの夏休みをもらったと説明した。辞めたと言えば気を遣わせてしまいそうだったし、有給休暇消化期間があるはずなので真っ赤な嘘というわけでもない。そのうえで、ケイに選択を委ねた。

 「フミさんが、ご迷惑じゃなければ」というのが彼女の答えで、「迷惑だったら、提案しないよ」というのが芙弥の応えだった。最初の一週間を棒に振らせてしまった分も、たくさんの思い出をつくってあげたい。期限は、今月末。それまでにいろんな場所へ連れて行こうと、はりきっていた。

 それなのに、この雨である。

 午後になっても勢いは衰えず、おまけに雷の音まで聞こえはじめる。

 感電しないよう、パソコンや電化製品のコンセントを抜いて回っていると、ケイが「なにか手伝いますか?」と寄ってきた。

「大丈夫。これで終わりだから。ケイちゃんは好きなことしてて……って、やることないですよね」

「いえ。じゃあ、あの、宿題しててもいいですか」

 分厚く重たそうな数冊の本とノートがテーブルの上に広げられる。書かれているのは、見たことのない文字だった。

「それ、ケイちゃんの世界の言葉?」

「はい。アドウィンシー語です」

「アド、ウインシー、語?」

「アドウィンシー。私たちの世界のことです。学校のことも、アドウィンシーって呼ぶんですけど。アドウィンシー語が、魔術に携わる者の共通言語なんです」

「今、ケイちゃんは日本語をしゃべってる、よね?」

「はい。うちは、父と母どちらも日本から来た人が先祖にいる家計なので。家では日本語です。学校ではみんなアドウィンシー語でしゃべってますけど、家ではそれぞれ親しんだ言葉を使ってるって人も多いと思います」

「そうなんだ」

 いろいろと聞いてみたかったが、宿題の邪魔をしてはいけない。

 芙弥は、通勤バッグから読みかけの文庫本を取り出した。

 ざあざあと部屋を包む雨音に、タンッ、トツッと雨粒が跳ねて室外機や木の葉を打ち鳴らす。雷はごろごろと猫が咽喉を鳴らすがごとく遠くなり、代わりに、ケイのペンを走らせる音がカリカリと刻まれていく。なんて穏やかで、心地好い空間なのだろう。

 はっと気がづくと、文庫本が床の上にあった。どうやら、眠ってしまっていたらしい。

 芙弥の動く気配に顔を上げたケイへ、窓の外を示す。

「買い物に、行きましょうか」

 いつの間にか雨は上がり、薄陽が射していた。



 みじん切りにしたキャベツを塩もみし、よく水気を絞る。大量のキャベツを切っていると肩が凝ってしかたなかったが、首をぐるんぐるん回す芙弥を見かねたケイが途中で交代してくれた。家では基本的にケイが食事をつくっているというだけあって、危なげない手つきだった。

 豚ひき肉に調味料を入れ、よく練る。そこへ塩もみキャベツとニラを混ぜ合わせたら、お楽しみの餃子包みタイムだ。

「あ」

 ケイが、本日何度目かの「あ」を漏らす。皮が破けた、ひだを作らず閉じた、タネを包み忘れた、タネがはみ出て閉じられない、今回はなんだろうか。

「ひらひらできなくなっちゃいました」

 しずしずと差し出された餃子は、左に大きなひだが二つあり、右はのっぺりとしたまま閉じ合わされている。片側で皮の余剰分を使ってしまったらしい。

「大丈夫。スタイリッシュでいいと思う」

「むずかしいですね」

 そう言いながらも、ケイはどこか生き生きした様子で次の皮へと手を伸ばす。

 遊びには行けなかったが、彼女に初めての体験を届けられたと考えれば、夏休み初日としては及第点だろう。

 タネの半分を包み終わるころには、「あ」という声も聞こえなくなった。

「すごい、上手にできてる」

 失敗したものは自己申告を欠かさないのに、きれいにできたものは黙々とトレーに並べていく。

 謙虚な彼女を、芙弥は飽きることなく褒めちぎった。

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