ラブレター
辞めるという発想がなかった。
しかし、そういう手段があることを知ってしまった。
「フミさん、大丈夫ですか?」
「……え?」
口の中のものを咀嚼して飲み込む。なんの味もしていなかった。自分は今、いったい何を食べたのだろう。
「大丈夫。ちょっと暑いよね。クーラーいれようかな」
辞めてしまえば、このままケイと過ごすことができる?
浮かんだ思いを、慌てて打ち消す。彼女を、退職の理由にしてはいけない。芙弥の人生の話だ。
人生つまらなそう。階段で聞いた、安田の声がよみがえる。悪意や嘲笑を伴っているほうがましだった。単なる事実の指摘、そんな言い方だったから、余計に痛いところを突かれた気になる。
つまらないと思ったことはない。趣味を問われれば読書と答えるくらいには本を読むし、音楽を聴くのも好きだ。魔法を見ればテンションは上がるし、不満や怒りを抱くこともある。ただ、職場でそれを露わにしてなんになるのかと思うから、表に出してこなかっただけだ。
雇ってもらたからには貢献しようと、真面目に働いてきた。それでも、芙弥の主張は聞き入れてもらえない。ならば、いっそのこと。心が揺らぐ。だが、傾くには至らない。
「現実的じゃないよね」
「現実的?」
「ううん、なんでも――」
向かいに座るケイの姿を見て、ふと思う。
現実的って、なんだろう。
芙弥の部屋で、魔女の子がお茶を飲んでいる。これは、現実的だろうか。一か月前の自分に伝えたところで信じるはずもないほど非現実的で、けれど、たしかな現実だ。
現実的じゃない、というのは、実現できないと同義ではない。アクアリウムは、ケイの魔法で実現できた。でも魔法がなくたって、芙弥がその気になるだけで、完成させることはできたのだ。公園での夕涼みも、細川自身にデータを修正させることも、安田や斉藤に手を借りたいと頼むことも、想像するだけで行動には移さなかった。できない、というのは自分への言い訳で、ただ芙弥が面倒くさがりで臆病だっただけだ。
せっかく、仕事を覚えたのに。
担当外の業務を振られれば、また一から覚えなきゃいけないことには変わりない。
新しい仕事は、見つかるだろうか。
新卒のときより、経験を積んだ今のほうができることは多いはずだ。
慣れ親しんだ職場を離れるなんて。
慣れただけで、今の職場に親しみを感じているわけではない。
働いてきた六年間より、これから先の人生のほうが長いのだ。見切りをつけるなら、早いに越したことはない。
ケイが寝たのを確認して、便箋と封筒を買い物に出た。
震えそうな手で、ぐっとペンを握り込む。一筆、一筆、こんなに力強く丁寧に文字を書いたことがあっただろうか。考えて、小学生のときに書いたラブレターが浮かぶ。緊張感があるのも、あのときと同じだ。ラブレターの次が退職届だなんて、笑ってしまう。
翌朝、電車内のアナウンスが次は降車駅だと告げたタイミングで、イヤホンから芙弥のお気に入りの曲が流れだした。別の曲に変えようと、伸ばしかけた手を止める。
働きはじめたころ、朝の電車で必ず聴いていた曲だった。どうにか気分を上げようとしてのことだったが、いつしかこの曲を聴いただけで通勤時の忌避感を思い出すようになってしまった。
やっぱり私、嫌だったんだ。
仕舞い込んだラブレター。同じ轍は踏むまいと、芙弥は避けてきたお気に入りの曲に耳を傾けた。
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