呼吸
エレベーターか階段か。少し迷ったが、目的の書庫室は一つ下の階だ。両腕のファイルを抱えなおし、
「そういえばさ、屋代さんのやつ聞きました?」
「え、屋代さん? 知らない、なになに?」
不意に、自分の名前が聞こえた。この声は、安田と斉藤だ。おそらく、給湯室がある二階の扉が開いたままなのだろう。
つい、立ち止まってしまった。
「休みがほしいとか早く帰りたいとか、部長に直談判してたんですよ」
「あの屋代さんが?」
「びっくりですよね」
「えー、想像つかない。自己主張できるタイプじゃないじゃん」
「ぽやーんって感じなのに」
「おっとりしてるって言うのよ」
「おっとり、って言うにはオーラが足りなくないですか?」
「なによ、オーラって」
「幸せオーラ? 包みこむ優しさ? 人生の余裕、みたいな。そういう感じじゃなくて、屋代さんのはもっと地味」
「地味」
「テンション上がることとか、なさそうじゃないですか」
「たしかに」
「ただ、ぽやーんと、働いて寝るだけの人生を繰り返してますっていう」
「あー、生き生きしてる屋代さんてイメージできないかも」
「でしょ?」
人生つまんなそう。安田の一言が、芙弥の胸をえぐった。
仲が良いと、思っていたわけではない。だが、同僚として当たり障りなく付き合ってきたつもりだ。こんな風に言われるほど彼女たちを不快にさせるようなことを、芙弥が何かしただろうか。
「でも、そんな屋代さんが休みほしがってるんでしょう?」
「そうそう、そうなんですよ」
「彼氏でもできたのかな」
「えー?」
「その反応は失礼」
「だって、それこそ幸せオーラないから」
「そうねえ。親の介護とか?」
「なんでもいいんですけど、なんか、業務を分担したいって言いだして」
「え!?」
「やばいですよね」
「それ、うちらが被害をこうむるやつ?」
「そうなりますよね。最悪」
「そんな、今さら」
「そうなんですよ。でも部長からはまだ何も言われてないんで、手一杯ですアピールしておこうかと思って」
「そうだね、定時上がり死守しよう」
「残業とか、ぜったいやだ。そっちの都合に巻き込まないでほしい」
知らず知らず殺していた息を、細く吐き出す。意識的に、何度か深く呼吸をする。
それでも、せり上がった感情は収まらず、喉がぐうと鳴った。
家に、ケイを待たせている。それは、たしかに芙弥の都合だ。けれど、芙弥だって、人手不足だという会社の都合に巻き込まれているだけだ。業務時間中、雑談に花を咲かせる余裕がありながら、被害者面しないでほしい。
あの子は、文句ひとつ、わがままひとつ言わないのに。
聞く耳を持たない上司、自分のミスを棚上げする後輩、一人に業務を被せ楽しようとする同僚、そんな人たちに遠慮して、ケイに我慢を強いるのか。
踵を返し、階段を駆け上がる。勢いそのままに、部長の席へと向かった。
「すみません、明日休ませてください」
「はあ? なに馬鹿なこと言ってんだ。こんな急に」
「申し訳ありません。ですが、お願いします」
抱えたファイルごと、頭を下げる。
「無理なものは無理。……ん? この前も、こんなやりとりしただろ。早く帰りたいとかなんとか。そういや、ここ数日は残ってたか? なに? やる気ないの?」
「いえ。ただ、知人の子どもを」
「知らないよ、そんなことは!」
「すみません。明日だけで、いいんです。半休でも。なんとか、ならないでしょうか。お願いします」
「しつこいな! そんなに休みたいなら、辞めたらどうだ」
は。と、掠れた音が漏れた。
息を吸ったのか、吐いたのか。わからないまま、芙弥は呆然と立ち尽くした。
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