ぱちぱち
研究所みたい。
ケイの感想に、そういえばと記憶をたどる。部屋に置かれた水槽を見て、
壁一面の大きな水槽に、色とりどりの魚や、普段は近くで観る機会のない生き物たち。芙弥にとっては心ときめくそれらも、魔法生物の研究所と比べれば見劣りするかもしれない。アクアリウムのことがあったから、夏休み最初の目的地は水族館に決めたのだが、選択を間違えただろうか。
彼女が楽しめないのではと心配したのは最初だけで、すぐにそれは杞憂だとわかった。
ケイは水槽一つ一つに顔を寄せ、角度を変え、興味深げに覗き込んでいく。展示パネルを読みあげる芙弥の声も耳に入っていないようだ。そのくせ、時折はたと辺りを見回すのは、芙弥の姿を探してのことらしい。だいたいは隣か斜めうしろなど近くにいるのだが、それを確認するたびに彼女は肩から力を抜いた。
たしかに、慣れない場所で芙弥とはぐれては困るだろう。ケイの不安はもっともだが、芙弥からしてみれば、はぐれるほうが難しい。なにしろ、銀髪の少女は目立つ。平日とはいえ館内にはそれなりの人がいて、彼らがちらりと視線を送る先に向かえばケイに到達するのではないかというくらい、彼女は注目を浴びていた。
だから、芙弥がもっと配慮するべきだったのだ。
一人でお手洗いに行って戻ると、「ここにいてね」と言った場所から一歩たりとも動くことなく、ケイは待っていた。彼女らしいな、と口元が緩む。続いて、綺麗だなと思った。
瑠璃色に染まった空間で、長い銀の髪がきらめいている。海月とともに白く照らしだされた彼女は、スポットライトが当たっているようでもあり、そのまま水に溶けてしまいそうでもあった。
「なあ、あれ、魔女じゃね?」
不躾な声で、我に返る。
「マジ?」
「うわ、ほんとだ」
前方の、学生らしき男たち三人組が色めき立っていた。
「おまえ、行ってこいよ」
「はあ? おまえが行け」
「じゃあ、俺が行くわ」
声を潜めるそぶりもなく、冗談が悪乗りに変わっていく。
まさかと思ったときには遅かった。「お姉さん、魔女?」一人がケイに近づき話しかける。
「俺、本物見るの初めてなんだけど。握手してもらっていいっすか」
「ねえ、今なんか魔法使えたりしないの?」
芙弥は早足で男たちのうしろから回り込むと、強張るケイの手を掴んで引き寄せた。
「うちの子に、なにか?」
できるだけ穏やかに、笑顔で問う。
いや、べつに。かろうじて聞き取れたのはそれだけで、あとはごにょごにょ、へらへらと、ふざけ合いながら三人は離れていった。大事に至らず、胸を撫でおろす。
「ごめんね、大丈夫?」
とっさにそう尋ねたものの、これでは大丈夫ですとお決まりの笑みが返ってくるだけだ。次ぐ言葉を慌てて探す。
しかし芙弥の予想に反し、彼女はただ、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「ケイちゃん?」
「うちの子」
「え?」
「うちの子、って」
「言ってた? ……言いました、ね」
無意識だった。けれど。
「今、ケイちゃんは、うちで預かってるので。その間は、うちの子。屋代ケイちゃんです」
「ヤシロ、ケイ」
まるでおまじないのように、口の中で何度か繰り返す。そうして、彼女はへにゃりと眉を下げた。
「私たち、ミョウジっていうのがないので、なんだか不思議な感じがします」
「苗字がないの?」
「正確にはあるんですけど、ぜったいに表には出しません。真名を明かしちゃいけないので、アドウィンシーでは呼び名しか使わないんです」
「そうなんだ。あ、それで」
初めて会った日、ケイにフルネームで呼ばれたのを思い出した。芙弥が名乗ったのを聞いて、ヤシロフミが呼び名だと彼女は認識したのだ。
そのときのことを話すと、ケイは「忘れてください」と両手で顔を覆った。
「苗字と名前がセットになってるって、でも、呼ぶときはどっちかだけを使うんだって。母から聞いていたのに、すっかり飛んじゃってて」
緊張してたんです。小さく唇を尖らせる彼女に、うんうんと頷いてみせる。
そうだったんだろうと、今ならわかることがうれしい。そして、あのときよりずいぶん幼く見えることも。
喉の奥に留めた忍び笑いと呼応するように、水槽の中、気泡がぷかぷかと浮かんで弾けた。
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