散った

 家と職場を往復する毎日だった人間が、久しぶりに一日がかりで出かけるとどうなるか。答えは、翌日に響く、である。

 行ってみたい場所や、やりたいこと、食べたいものなど、何かないかとケイに尋ねたが、特にないと言う。芙弥ふみにも、遊びに行こうという気力は残っていない。けれど、ひとりのときのように怠惰に過ごして終わらせるのも、もったいない。

 休日の特別感が味わえるようなこと。惰眠を貪る、昼間から酒を飲む、部屋を暗くして映画を観る、お菓子パーティー。思い浮かべて、手を打った。

「ケイちゃん、ちょっと買い物に行ってくるね」

「え。あ、…………はい。いってらっしゃい」

 返事までに少し間があったのは、一緒に行くと言おうか迷ってのことだろう。気づかないふりをして、心の中で謝罪する。

 連れて行けば、彼女はぜったいに自分もお金を払うと言いだす。昨日も、財布を押し戻すのに苦労した。芙弥だって、全部の費用を負担するつもりはない。ただ、芙弥のやりたいことにケイを付き合わせている状態で、お金を出させるのは筋違いだ。だから、「ケイちゃんがやりたいことのために、取っておいてください」と伝えたのだが、彼女は不服そうだった。

 ホットケーキミックスに、卵、シロップ、ホイップクリーム、バナナ、フルーツの缶詰、ジャム、バニラアイス、チョコレートスプレー、それから、二冊の絵本。子どもの自分が見たら大喜びで跳ねまわっただろうものたちを、大人の芙弥はすまし顔でエコバッグから取り出していく。

 ケイは跳ねまわりこそしないものの、隣に張りついてその様子を凝視していた。

「ケイちゃん」

「はい!」

「これね、小さいころ私が好きだった絵本なの。ケイちゃんにも読んでもらいたいなと思って。文字は私が読むから、絵を見ながら聞いてくれる?」

 昔から、物語に登場する食べものが好きだった。

 中でも、この絵本たちは特に印象深い。

 一冊は、おかあさんと一緒にしろくまがホットケーキをつくる話だ。表紙には、お皿に高く積み重なったホットケーキが描かれている。やわらかな擬音にわくわくし、ひっくり返したときのこんがりとした焼け色がとても美味しそうに見えた。

 もう一冊は、二匹のねずみが大きなホットケーキをつくる話。そう記憶していたが、ねずみがつくっていたのはカステラだった。それでも、心くすぐられることに変わりはない。おなべいっぱいにふくらんだカステラは、読んでいるこちらにまで甘い香りをただよわせてくるようだ。

「かわいくて、おいしそうでした。私も、好きです。あの、それで、もしかして」

 そわそわと、ケイがキッチンへ目を移す。

「今から、ホットケーキパーティーをします」

「うわあ……!」

「絵本のホットケーキみたいに、ふわふわになるつくりかたも調べました」

「わあ」

「そして、スキレットも買いました」

「えっ」

「お皿に重ねるもよし、スキレットから食べるもよし、トッピングし放題」

「最ッ高」

 ケイが、その場でぴょんと小さく跳ねる。「でしょう?」と芙弥は破顔した。絵本で特別感を高める作戦は、功を奏したようだ。

 幼いころ、これが食べたいと絵本を見せて母にねだったことがある。「そんなの、家でやったって美味しくないわよ」と一蹴されて終わった。今となっては、母の言うこともわかる。ホットケーキの味も、知っている。

 けれど、期待に満ちたケイの瞳が、あの日の憧れを肯定してくれる気がした。

 儚く散った夢のかけらを混ぜ、こんがりと焼きあげる。なんでもない一日に、甘い香りが満ちた。

 

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