摩天楼

 地上三百メートルを超える展望台から、街を見下ろす。

 高所への苦手意識がない芙弥ふみでも、内臓が浮き上がる心地に少し足が竦んだ。

「わあ、すごい!」

 ケイは、まったく気後れした様子もなく、ガラスに顔を寄せている。

「建物がびっしり!」

「そこ?」

「どこを見ても建物だらけなの、いつも気になってて。人が集まってる場所だからかなって思ってたんですけど、でも、違うんですね。キャンプしたところみたいな、ああいう場所のほうが珍しいんだ」

「日本全体で見たら、ああいうところもいっぱいあるよ。このあたりは、人が集まってるからビルが多いっていうのも、あってると思う」

「そうなんですか? じゃあ、ここから見える、建物があるところ全部に人がいっぱいいるってこと?」

「そうだねえ」

「うわあ。たしかに、ここも人が多いですもんね」

「休日だから、余計にね」

 都心の観光スポットは、進路を確保するのが難しいくらいには混み合っている。

 電車に乗るまで、今日が休日だと気づけなかったのは迂闊だった。仕事がないせいで、曜日感覚が抜けてしまっている。

「祝祭みたい」

 さいわい、ケイは辟易するどころかむしろ高揚しているようだ。有名な観光地であれば、人でにぎわっているのもまた一興なのかもしれない。観光するつもりで日本へ来たわけではないと彼女は言っていたが、連れてこられてよかったと思う。「せっかく東京にいるんだから、行ってみたら?」と提案してくれた幸久ゆきひさに、芙弥は電波塔から感謝の念を送った。

「遠くまで、よく見えますね」

「天気がいいから」

「これも、私のおかげですか?」

「そうだね、きっと」

 ケイが大仰に胸を張るので、ありがたやと拝んでみせたら、その響きが気に入ったらしい。ありがたや、ありがたや。見渡すかぎりの快晴に向かって、彼女は節をつけて繰り返す。

 刷毛で塗ったかのような青い空に、白く浮き立つ入道雲。遮るものがないせいか、とりわけ大きくたなびいて見える。陽に照らされ神々しいまでに輝くそれは、同時に深い陰影を湛えていて、たしかな質量を感じさせた。

「小さいころ、あの雲の中には別の世界があるんじゃないかって思ってた」

 本当は、今でもときどき想像する。あれが、ただの小さな水滴の集まりだなんて信じられないまま、大人になってしまった。

「あの存在感、お城とか入ってそうですよね」

「そうそう。……アドウィンシー、あの中にあったりしない?」

「えっ、日本の雲ってそういうことですか!? 本当に雲?」

「どうかなあ。門みたいなものだって言ってなかったっけ」

「そう、です。門を通って、突きあたりの扉を開けたら、こっちに来てました」

「床はふわふわしてた?」

「してなかったです」

「じゃあ、違うかも」

「ええ? もしかして、適当に言ってただけですか?」

「そうだよ」

「びっくりした。フミさん、何か知ってるのかと思いました」

「まさか」

 何も、知らない。そうだったら、少しは身近に感じられるかと思っただけだ。

 けれど、仮にふたつの世界が雲で繋がっていたとしても。摩天楼と呼ばれる超高層ビル群ですら、遥か下に広がっていて。天を摩するというなら、この展望台のほうがよっぽど天に近くて。それでもまだ、雲はあんなに遠い。

 伸ばした指先は、分厚いガラスに当たって渇いた音を立てた。

 また、訪れてもいない未来を思案して怖気づいている。芙弥の悪い癖だ。

 自嘲して下ろした左手は、しかし下りきる前に、くいと持ち上げられる。

「フミさん、反対側にも行ってみましょう」

 袖を掴んだ張本人は、すでにこちらを見てはいなかった。早くも弾む足取りで目的地へと踏み出している。

 そのことに安堵しながら、手を引かれる子どもみたいに、芙弥はケイのあとをついて歩いた。

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