チョコミント

 洗面所の扉が細く開いた。

「空いてるよ」

 芙弥ふみが洗面台を指すと、ケイが中に入ってくる。

「洗濯機回すから、洗うものあったら出しておいてね」

「はい」

 手に取った歯ブラシを戻そうとしたケイに、「終わってからで大丈夫だよ」と言い添えれば、そのまま口へ持っていった。

「ケイちゃん、歯磨き粉使わないの? 苦手?」

「ハミガキコ?」

「これ。歯の石鹸みたいなものなんだけど、ちょっとスーッとするから、嫌だったらすぐ出してゆすいでね」

 ケイの歯ブラシに、薄く歯磨き粉を乗せてやる。

「ん、おいしい。…………んん!?」

 はじめは、好感触だった。が、急に目を白黒させたかと思うと、何かに追われるように口をゆすぎだす。

「大丈夫? 苦手だった?」

「口の中が、ブクブクって。すごい、泡がいっぱい、息できなくなるかと思いました」

 それは、盲点だった。

「ごめんね」

「いえ! 味は、おいしかったです」

 歯磨き粉は、そもそも味わうものではない。けれど、気に入ったのなら、歯磨き粉が使えずとも、似た味を楽しめるのではないか。

 その日の午後、芙弥はケイと散歩に出かけた。

 まだ七月だというのに、夏本番のような日差しが降り注いでいる。ケイには、水族館の帰りに買った帽子をかぶってもらった。人目からも直射日光からも守ることができて、一石二鳥だ。

 駅ビルで買ったアイスクリームを片手に、公園のベンチへ腰を下ろす。容赦なく溶けていくので、道中で半分ほど食べ終えてしまっていた。

「おいしいですね、チョコミント」

 コーンのアイスクリームを食べ慣れていないのか、ケイは最初、そこかしこから溶けて流れるアイスに苦戦していた。今は座って落ち着けたこともあり、手が汚れる前にいち早く舌で掬っている。

「よかった。苦手な人は、歯磨き粉の味がするって言うの。だから、歯磨き粉がおいしかったなら、チョコミントも好きかなと思ったんだよね」

「好きです。でも、歯磨き粉の味かなぁ。歯磨き粉はもっと鼻にぬける感じがしたし、こっちはチョコの味がするから、もっとおいしいです」

「そうなの! とくに、そのアイスは、チョコとミントのバランスがいいんだよね。甘すぎないし、ミントも強すぎないし。チョコミントって、ものによって全然違ってね。もっとミントがスース―してたり、チョコチップじゃなくて、チョコレートソースを使ってたり。私は、優しくミントが香って、チョコはチョコでしっかり楽しめるタイプが、ベストだと思ってて。そこのアイスが、いちばん理想に近いチョコミントなの」

 気づけば、ケイが驚いたような顔で芙弥を見ていた。

「ん?」

「チョコミント、大好きなんですね」

「そう、かな?」

 たしかに好きだが、バニラや抹茶も好きだ。チョコミントを選ぶかどうかは、そのときの気分次第である。

「だって、フミさんがそんなに話すの、初めて聞きました」

「え!? そう?」

 今度は、芙弥が驚く番だった。

「いつも、私の話を聞いてもらってばっかりで。フミさん、いろいろと質問してくれますけど、自分のことはあんまりしゃべらないから」

「そうかな? ケイちゃんの話がおもしろくて、いろいろ聞きたくなっちゃうんだよね」

 アドウィンシーという未知の世界の話は物語のようで、けれどそれが現実だということが、より芙弥の興味を掻きたてていた。

「私も、フミさんの話、聞きたいです」

「うーん、おもしろい話はできないと思うけど。でもべつに、隠してるわけじゃないので。なんでも聞いてください」

「じゃあ、好きな色は?」

「んーっと、オレンジ」

「好きな動物は?」

「えっと、そうだな、ひつじかな」

「嫌いな食べ物は?」

「貝」

「貝?」

「そう、あさりとか、しじみとか。食べづらいし、砂がじゃりってするのが嫌なの」

「へえ」

「だから、うちではぜったいに貝のお味噌汁は出ません」

 高らかに宣言すれば、「大丈夫です」とケイがくすくす笑う。

 生ぬるい風が通り抜け、揺れる木漏れ日に首元を伝う汗がきらめいた。

「えっと、じゃあ、趣味は?」

「読書です。ね、続きは冷房の効いた部屋でやるっていうのは、どうですか?」

「あ、そうですね」

 アイスクリームは、とっくになくなっている。

「私も、ケイちゃんにインタビューしたいし。ちなみに、私は暑いより寒いほうが好き」

「私もです」

「でも、夏は好きなの」

「え、なんでですか?」

「なんででしょうね。ケイちゃんにも、わかる日がくるといいなあ」

「えー?」

 なんですか? どういうことですか? 

 ケイの疑問符に笑みだけ返し、立ち上がる。

 少し早い蝉の声が、芙弥の夏を後押ししてくれる気がした。

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