雨女

「フミさん! 雨です!」

「えっ」

 顔を上げると、窓に水滴が線を描くのが見えた。

「今日は降る予報じゃなかったのに」

 ケイのあとを追って、芙弥ふみもベランダへ出る。さいわい、干した衣類にそれほどの被害はなかった。わずかに湿り気を帯びているが、これなら浴室乾燥機で乾きそうだ。

 ほっとしたのもつかの間、「……うん? な、なんで!?」目を疑う光景に思わず大きな声が出た。

 派手な花柄の傘を差して、マンションのエントランスへ向かう女性の顔。見間違いであってほしいが、見間違えるはずもない。

「ケイちゃん、ごめん。たぶん、母が、来た」

「え?」

 ピンポーン。めったに鳴ることのない音が部屋に響いた。

 洗濯物をケイに任せ、玄関の戸を開けに行く。やはり、そこには千鶴ちづるが立っていた。

「びっくりした、急に。連絡くれたらよかっ――」

「した、した! 返信ないけど、どうせ家にいるんだろうと思って来ちゃった。仕事も辞めたんだし、暇でしょ? もう。新卒で入った会社あっさり辞めちゃって。どうすんの、これから? 大丈夫なの?」

「どうするって……。次の仕事、探すよ」

「じゃなきゃ困るわよ。だけど、そう簡単に見つかるのって話。売りにできるような実績だって、ないんでしょう? あー! ケイちゃん! こんにちは。元気?」

 ケイの姿を見た瞬間、千鶴の関心がそちらへと移った。音量差のある会話を聞くともなしに聞きながら、キッチンでグラスに氷と麦茶を入れる。紅茶やコーヒーを用意するだけの気力は、たった今なくなってしまった。

「はい、これお土産。ふたりで食べて」

「ありがとう」

「ありがとうございます」

 麦茶のグラス三つにお土産の紙袋まで置かれたテーブルは、三方を人に囲まれ窮屈そうだ。かと言って、ひとり離れて座るわけにもいかず、芙弥は向かい合うふたりの顔が見える位置に腰を下ろした。

「いつ帰ってきたの? おばあちゃんは、もう大丈夫なの?」

「平気平気。今日これから帰るところなのよ。帰るついでに寄ったの。だって、お父さんまでケイちゃんに会ったって言うじゃない。あたしの友だちの子なのに、あたしだけケイちゃんに会えないなんておかしいでしょう? もう、お父さんからふたりの写真が突然送られてきて、びっくりしちゃったわよ。うちに泊まるなら、連絡くれたらよかったのに」

「あのときは、急だったから。もともと泊まるつもりで行ったわけじゃなかったし」

「ああ、だからか。ケイちゃんが、あんたの変なダサいTシャツ着てたからおかしいと思ったのよ。でも、ケイちゃんみたいな美人さんが着ると、オシャレに見えるから不思議よね」

 肯定も否定もする気にならず、苦い笑みを浮かべて流す。ざらりとした不快感も、それを顔に出したところで母には響かないのも、いつものことだ。しかし、ケイの気遣うような視線に、多少はとり繕うべきだったかと反省する。芙弥にとっては日常でも、ケイはいたたまれないだろう。

「あの服たちも、こっち持ってくるなり処分するなりしてちょうだいよ。いつまでもうちに置いておかれても、邪魔なんだから」

「うん。ごめんね」

 反省を踏まえ、今度はできるだけ穏やかに返す。それから、「あ、そうだ、これ見て」とアクアリウムを引き寄せた。

「なあに、それ? なんか飼ってるの?」

 話題を変えることに成功し、芙弥は水槽から魚の形をした醤油差しを取り出す。

 捨てないのかとケイから怪訝な目を向けられた日もあったが、そんなことできるはずがない。大事な思い出の品なので、きれいに洗ってとってあった。今では愛着も湧いている。

「これ、ときどきケイちゃんが魔法で動かしてくれるの。すごいんだよ、本当の魚みたいに動くの」

「えー! 見たい見たい!」

 千鶴と芙弥の期待に満ちた眼差しを受け、ケイは眉を下げる。「ぜんぜん、すごくはないんですけど」と謙遜しつつ、腕輪を光らせた。

「あら、ほんと。水の中を泳いでるように見えるわ。ケイちゃん、魔法使えるようになったのね」

 はた、と醤油差しが水槽の底に落ちた。

「あの、私が魔法使えないって、どうして……」

 ケイが、ちらりと芙弥を窺う。芙弥が首を横に振るのと、千鶴が答えたのは、ほぼ同時だった。

「アイラちゃんが言ってたのよ。言ってた、っていうか手紙に書いてあったんだけど」

「お母さん、なんて言ってましたか?」

 緊張をはらんだケイの姿に、芙弥まで背筋が伸びる。しかし、千鶴は「えー?」と間延びした声で首を捻った。

「なんか、べつに魔法なんか使えなくても、みたいなこと言ってたよ」

「えっ」

「お母さん、本当にそう書いてあった? もう少し細かく、正確に教えてあげて」

「ええ、なんでよ? そんな一言一句覚えてるわけないでしょ。えーっと、なんだっけ。責任感じてるみたいなことがつらつら書いてあったのよね。そうそう、ケイちゃんは魔法使い同士の子どもだし、魔力値高くて。親である自分たちもこんなだから、他の道を示してあげられなかったけど、でもべつに魔法が使えなくてもいいとかなんとか。魔法のない世界を見て、魔法が人生のすべてじゃないってことを知ってほしいんだって」

「そう、ですか」

 ケイが、小さく下唇を噛む。彼女の考えていたことは、当たらずといえども遠からずだった。もちろん両親から見放されてなどいないし、ケイを想ってのことではあるが、魔法が使えなくなった場合を想定されては複雑な心境になるのも無理はない。

 そんなケイの様子に気づきもせず、「あとはー」と、千鶴は顎に手を当てて記憶を辿っている。

 止めるべきか、最後まで聞くべきか。迷う芙弥をよそにあっけらかんと落とされた発言が、重くなった空気を一瞬で吹き飛ばした。

「あ、旅行で気分が晴れれば、治るかもしれないらしいよ」

「えっ!?」

「お母さ――」

「待って。今、思い出してるとこ。たしか、魔法を使うのに、感情の高まりが必要……? いや、違ったかな。魔力を出すのと感情を出すのが似てるって話だったっけ。ケイちゃん、なんかそういうの、聞いたことない?」

「えっと、魔力を放出するときの身体反応と、感情の発露による身体反応の、相関関係の話、でしょうか?」

「どういうこと?」

「感覚的なことなので、私もうまく言えないんですけど。たとえば、心臓がドキドキしたりとか、ちょっと身体が熱くなる感じがしたりとか、魔法を使うときって気分が高揚するときと似た状態になるんです」

「アドレナリンが出る、みたいなことなのかな」

「アド、ナリン?」

「あ、そういうホルモンがね。あー、ええっと、ホルモンっていうのは」

 たどたどしく始まった芙弥の説明を、「ようするに」と千鶴が遮った。

「ケイちゃんが魔法をうまく使えないのは、そのあたりに原因があるのかもしれないって話で。だから、日本旅行っていう非日常的な経験の中で、ケイちゃんの感情の振れ幅が大きくなれば、そのぶん魔法も出しやすくなるかもってことみたい」

 キャンプ場で起きた、火柱を思い出す。ケイも同じことを考えたのだろう。彼女の全身から力が抜けていくのがわかった。

「で、どうなの? 気分転換になりそうなこと、できた?」

「たぶん。あ、いえ。はい。あの、楽しいです、毎日」

 そこからは、ケイがどう過ごしていたのか、千鶴の質問攻めが始まった。ときどき、ケイも昔の両親について千鶴に尋ねては、初めて聞く話に瞳を輝かせている。

 思いのほか有意義で和やかな時間が過ごせたことに、芙弥は安堵した。

「雨も止んだみたいだし、そろそろ行くわ」

 立ち上がった千鶴を、二人で玄関まで見送る。

「じゃあね、ケイちゃん。芙弥んとこが嫌になったら、いつでも連絡ちょうだいね。迎えに来るから」

「あはは、大丈夫です」

 その台詞は意外なほど力強く響き、芙弥の胸を打った。千鶴の余計な一言も、たまにはいい働きをする。

「ありがとうね、寄ってくれて。気をつけて帰ってね」

「はいはい。あんたも、しっかりね」

 千鶴の手に傘が握られていることを確認し、玄関の戸を閉める。

 部屋に戻ると上がったはずの雨がまた降り始めていて、思わずケイと顔を見合わせた。

「雨女、ですか?」

「雨女の本領発揮ですね。ごめんね、うちの母が急に。びっくりしたでしょう」

「いえ。いろいろお話が聞けて、よかったです」

 でも、と言いかけて、ケイは口を噤んだ。無意識に滑り出てしまった言葉に、ケイ自身が戸惑っているようだ。膝を抱えて座った彼女の隣に、芙弥も肩を並べる。

 逡巡の後、ふうと息を吐く音がした。

「私のためだってことは、わかりました。気分転換も口実じゃなかったし、なんで日本に行くよう勧められたのか、納得は、しました。でも、私は、魔法が使えなくて落ち込んでたんじゃなくて。もちろん、それで落ち込みはしましたけど、なんとかしなくちゃって思いましたけど。でも、そういう問題じゃないんです」

「うん」

「それに、気分転換が必要だって思ったなら、人に預けるんじゃなくて、私と過ごす時間を増やしてほしかった」

「うん」

「今日聞いたこと全部、チヅルさんから聞くんじゃなくて、お母さんの口から直接聞きたかった」

「うん」

 これは余計な一言かなと思いながら、「でも」と芙弥も続ける。

「今ケイちゃんが思ってることも、言わないと、きっとわかってもらえないんじゃないかな」

「…………」

 そう、ですね。

 小さな相槌を膝に落とし、ケイがばっと芙弥に向きなおった。

「じゃあ、今思ってること、ひとつ言ってもいいですか?」

「うん。なに?」

「フミさんのTシャツ、私は可愛いと思います」

 彼女があまりにも真剣な顔で言うものだから、面食らってしまう。

 じわじわとこみ上げてくる可笑しさを堪え、「ありがとうございます」と、芙弥も神妙に頭を下げた。

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