蚊取り線香

「わあ、なんか不思議な香りがします!」

「畳の匂いかな」

「足元もやわらかいような、張りつくような、不思議な感じ」

「それが畳ね」

「扉がいっぱいある!」

「右側のは押入れ。物をしまう場所ね。正面のが、障子。開けたら縁側があるよ」

「開けていいですか?」

「どうぞ」

 初めて目にする和室に、ケイはずいぶんとはしゃいでいる。「昨日は、借りてきた猫みたいだったのに」芙弥ふみがぼそりと漏らしたのを聞きつけ、障子に伸ばしかけた手を止めてケイが振り返った。

「猫がいるんですか!?」

「あ、いえ、猫はいません」

「えっ?」

「ケイちゃん、昨日は緊張してたんだね」

「それは、そう、ですけど。でも、ユキヒサさん、優しかったです」

 昨日、深夜に到着した芙弥とケイは、お昼近くまで寝ていた。二人が起きたときには父の幸久は仕事に出てしまっており、ケイと幸久の対面は夜となった。

 芙弥が住むマンションと比べても、実家は物が多い。ケイは興味深そうにしていたが、気になる素振りは見せても、端から手に取ったり、他人様の家を探検したりするような子ではない。家主に挨拶を済ませていないこともあってか、昨日の彼女は芙弥が案内したリビングの席でお行儀よく過ごしていた。

 それが今や、開けた障子を矯めつ眇めつ眺め、「すごい!」と感嘆の声を上げている。

「太陽の光が、やわらかくなりますね。いいな、うちの窓もこれにしたい」

 幸久が好意的に迎えてくれたことが、ケイの緊張を解いたのは間違いない。だが、彼女がこれほど心躍らせているのは、ケイの母アイラもここに泊まったことがあると聞いたからだろう。

 この家は、千鶴の生家らしい。千鶴が学生のころ、日本へ来ていたアイラと知り合い、友だちになってからは、たびたび泊まりがけで遊びに来ていたそうだ。

 「お義父さんたちが田舎に帰るというので、僕と千鶴さんで住むことになって、そのときにリフォームをしたんだけどね。和室は、アイラさんが気に入っていたからそのまま残したいって千鶴さんが。ケイちゃんもよければ、また明日にでも、ゆっくり見てみるといいよ」と幸久は語った。ケイはすぐにでも見たい様子だったが、そのあとすぐ風呂を勧められたために、機会を逸してしまったようだ。

「このベルは、なんですか? これも可愛い」

「それは風鈴。風が吹くと、こうやって鳴るの」

 短冊を手で揺らせば、チリンと澄んだ音が響く。

「すごい、綺麗」

 リ、リン、リン、チリン。ケイは自身の手で何度か鳴らすと、満足げに微笑んだ。

「エンガワっていうのは、どれですか?」

「縁側は、ここだよ。この障子と窓の間のところ」

「へえ。廊下とは違うんですか?」

「うーん。隣の部屋にも繋がってはいるんだけど。窓を開けたら、庭の一部になるというか。私の中では、ベランダみたいな感覚に近いかな」

 説明しながら、掃き出し窓を開ける。

「こうしておけば、外からも座れるでしょう」

「あ、本当だ。お庭のベンチにもなるんですね」

 そうそう、と首肯する芙弥の横で、不意にケイが息を飲んだ。

「フミさん、見て。あそこ、何かいます」

 袖を引かれるまま、彼女が指差す先を見る。 

「うん? どれ?」

「あれです。ピンクの」

 生い茂った雑草の中、ピンクの何かが埋もれている。まん丸な瞳と目が合い、その正体がわかった芙弥はサンダルをつっかけて庭に下りた。「これ?」とケイの前まで連れてくる。

「ゾウ?」

「そう。そして、じょうろ」

「ジョウロ?」

 和室を抜け、台所で水を調達する。縁側から庭へ、実際に水を撒いてみせれば、「わっ」とまるで手品でも見たかのような反応を示した。

「可愛い! すごい……ふふっ、鼻から水が。可愛い。可愛いですね!」

 まさか、そんなに気に入るとは思わなかった。庭に捨て置いていたことが申し訳なくなるくらいだ。心なしか、薄汚れたゾウも喜んでいるように見える。

 仕事から帰ってきた幸久にその話をしたら、「持っていってもいいよ」と言われた。

「ううん、大丈夫。欲しいなら、新しいの買うし」

「そうか。そのほうがいいよね。いやあ、ケイちゃんがうちを気に入ってくれたって知ったら、千鶴さんも喜ぶよ」

「はい。ワシツもエンガワも、とっても素敵でした!」

 幸久は相好を崩し、ぐいとビールを呷った。それから、何個目かわからない唐揚げをつまむ。

「お父さん、あんまり食べすぎないでね」

 芙弥の記憶にある父は、どちらかといえば少食だ。芙弥とケイが作ったからといって気を遣わなくていい。そう言外に含ませるが、幸久はどこ吹く風である。

「美味しくて、ついね。そうだ、ケイちゃん。和室が気に入ったなら、今日は和室で寝るかい?」

「いいんですか?」

「いいよ、いいよ。フミ、あとで布団を敷いてあげて」

「うん」

「あ、私、やります」

「うん、一緒にね」

「はい。ありがとうございます」

 ニコニコと見守るような幸久の視線が、気恥ずかしい。空気を変えるように、「そうだ」と芙弥も手を叩いた。

「今日のデザートは、縁側で食べよう」

 幸久の買ってきてくれたスイカが、冷蔵庫に入っている。

 なるべく冷やしたほうがいいだろうと、三人とも風呂を済ませてから、芙弥はそれを切り分けた。半月型のスイカを両手で持ち豪快にかぶりつくのも魅力的だが、食べやすさを重視して三角型にする。

 掃き出し窓を開け放つと、むわっとした熱気が流れ込んできた。和室の襖と障子を全開にし、扇風機を使ってリビングから縁側へ冷房の風を送る。人工的な冷たい風と、夏のぬるい夜風が混じり合い、風鈴がチリン、チリンと音を立てる。

「夏だねぇ」

 幸久が、しみじみと呟いた。

「夏だねぇ。ケイちゃん、これが私の好きな夏だよ」

 いつだったか公園で交わした言葉の続きに、ケイが頷く。

「私も。暑いの苦手だけど、でも、夏が好きになってきました」

 しゃく、とスイカを食む。甘く冷たい果汁が口の中に広がり、咽喉を潤す。生き物の熱にも似た大気の温かさに、体が溶けてゆく気がする。

 思い思いに夏を感じるささやかな静寂を破ったのは、ケイだった。

「フミさん! あれ、なんですか? か、可愛い……! ブタ? ブタですよね? えー! 可愛い!」

 幸久が用意したらしい蚊取り線香に向かって、小走りで近づいていく。よく見ようと丸まりかけた背中が、「わ、臭い!」という悲鳴とともに仰け反った。

「ケイちゃんは、元気だね」

 どこか安心したような幸久の声色は、ケイに対するものか芙弥に対するものか。娘が仕事を辞め、見知らぬ子を預かることになったと聞いて、心配していたのだろう。

 元気になったんだよ。ケイちゃんも、私も。

 幸久が何も訊かないから、芙弥もこれまでの過程は語らない。

 ただ、「可愛いでしょう?」と応えた声には、得意げな響きが滲んでいた。

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