飛ぶ

「屋代さん、勘弁してくださいよ」

 皆が昼休憩から戻り仕事を再開したフロアに、芙弥ふみを非難する声が響いた。

 この大げさな物言いは、と顔を上げれば、案の定ずんずんと近づいてくる細川の姿があった。

「ええと」

「もらった会議資料、データ違ってるとこあったんすけど。おかげで変な汗かいちゃいましたよ」

 そう言いながら、細川はわざとらしくシャツの袖をまくった。日に焼けた腕が露わになる。今朝、キャンプに行ってきたのだと自慢げに語っているのを耳にした。芙弥が細川のせいで休日出勤をしている間、彼はキャンプを楽しんでいたのだ。知ってしまったときのやりきれなさがよみがえる。

 もともと、件のデータを用意したのは細川だった。金曜の夕方、「これも会議資料に入れといてもらってもいいっすか」と頼まれた。それくらいならと引き受けたが、ざっと目を通したところデータにいくつかおかしな点があり、休日を返上して修正する羽目になったのだ。

 とはいえ、見落としがあったのは、芙弥のミスだ。「すみません」と頭を下げる。

「じゃ、次からはちゃんと頼みますね」

 ぱん、と両手を合わせ去っていく背中に届かぬよう、芙弥は小さく息を吐いた。

「屋代さん、また細川君にムリ言われたんでしょ」

「屋代さん、優しいから」

 右隣から安田が芙弥に椅子を寄せれば、左からはいつものように斉藤が入ってくる。二人の香水が混ざり合い、甘ったるい匂いが芙弥の鼻をつく。

「ってか、あいつ、わざとらしすぎません?」

「ね! 大きい声出しちゃって」

「みんなに聞いてほしい感出しすぎ」

「俺のせいじゃありませんアピール、やばかったね」

「でも、だいたい、あいつがやらかしてますよね」

 とんとんと進む会話に入れる隙はなく、どんな顔で聞いていたらいいのかもわからない。ぼんやりパソコンの画面を眺めていると、「大丈夫?」と斉藤がこちらを覗き込んだ。

「細川君にいろいろ、押し付けられてない?」

「大丈夫です」

 ぜんぜん何も気にしていない、という風に笑ってみせる。

「お騒がせしてすみません。ありがとうございます」

 安田も斉藤もどこかつまらなそうに、定位置へ戻っていく。それを尻目に、芙弥はケイの笑顔を思い出していた。

 昨晩、母である千鶴の希望により、二人がカメラ越しに対面を果たしたときのことだ。

「キャー! ケイちゃん、アイラちゃんにそっくり」

「そうですか?」

「似てる似てる。って言っても、もう何年も会ってないから、あたしが知ってるのは昔のアイラちゃんだけど。アイラちゃん、元気? ケントくんも」

「はい、元気です」

「相変わらず、研究ばっかり?」

「ふたりとも、仕事が生きがいなので」

「そっかー。ケイちゃんも、魔力値が高いんでしょ? あ、でも、アイラちゃんが心配してたよ。最近、学校の成績が落ちてるって。若いうちに、ちゃんと勉強しておかないと――」

「お母さん!」

 思いつくままに喋る千鶴を慌てて遮り、話題を変える。

「確認だけど、ケイちゃんは次の休みに、私がそっちに連れていくってことでいいんだよね」

 千鶴のこういう無神経なところが、芙弥は苦手だった。自分に向けられたものならまだいいが、悪気がないせいで、時も人も選ばないから厄介だ。凍りつく空気や、顰められた眉に、数えきれないほど肝を冷やしてきた。

「そうね。あたしはこっちを離れられないし、平日じゃ芙弥が動けないでしょ?」

 たしかに、仕事が終わってから新幹線で送って帰ってくるのは厳しい。

「そうなんだけど。私は、遅くなる日も多いし、その間は、ケイちゃんが家でひとりになっちゃうし」

「ぼやっとしてるから、仕事が終わんないんじゃないの? あんた、昔からどんくさいんだから」

「最近辞めた人がいて、人が足りてないの。それでね、お父さんに送ってもらったらどうかなって、思うんだけど。帰りが遅いこと、そんなにないでしょう?」

「やだ、年頃の女の子がお父さんとふたりきりなんて気まずいでしょうよ。それこそ、かわいそうじゃない。それに、こっち来てもらっても、あたしだってかまってあげられないよ」

 また、そんな言い方をして。ケイの反応を窺う前に、彼女のほうから「あの」と口を開いた。

「私、大丈夫ですよ。ひとりは慣れてますし、もしお邪魔なら、あっちに帰っても。母には私から言っておきますから」

 喫茶店で見せたのと同じ大人びた笑顔に、どきりとする。

 べつに、普段が仏頂面というわけではない。駅のホームドアには目を丸くしていたし、スーパーでは物珍しそうにきょきょろしていた。訊いたことには律儀な答えが返るし、家電の使い方やこちらでのルールを自分から質問してくれることもある。ただ、緊張しているのか、どこか硬さは拭えない。

 それなのに、大丈夫と口にするときだけ、綺麗に微笑むのだ。相手を気遣っているようでもあり、自分を守っているようでもある。そう感じてしまうのは、知らず知らず自身と重ねていたからかもしれない。

 結局、当初の予定どおり、週末までは芙弥の家で預かることになった。

 だから、今日は絶対に定時で帰ると心に誓っていた。しかし、現実は甘くはない。いや、芙弥の読みが甘かった。人もまばらになったフロアを出て、階段を駆け下りる。

 ケイは、夕飯を済ませただろうか。こうなった場合に備え、昨日のうちにインスタント食品や冷凍食品など、簡単に食べられるものを買い込んでおいた。日本語の文字は読めないと言うので、ひととおり説明もしたのだが、大丈夫だっただろうか。遅くなったお詫びに、コンビニでケーキでも買って帰ろう。

 いつもは重い足を引きずって下りる階段、その残り数段をぴょんと飛ぶ。

 もしかして、今、私、少し浮かれてる?

 気恥ずかしさを振りきるように、芙弥は家路を急いだ。

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