カラカラ

 寝ぼけ眼のまま、芙弥ふみは手探りでスマートフォンを掴み当てた。時間を確認すると、もう夕方で、思わず眉根が寄る。うたた寝のつもりが、しっかり寝入ってしまった。

 ケイが暇を持て余しているのではないか。慌てて体を起こすも、部屋に彼女の姿はなかった。ベランダからは、明るい陽が差し込んでいる。日没にはまだ遠く、外は変わらず暑そうだ。

 夕飯はどうしよう。ケイが戻ったら相談するとして、その前に今ある食材を見ておこうと、芙弥はキッチンへ向かった。

 冷蔵庫を覗き、ふと違和感を覚える。胸を浸食する不安に急かされ振り返れば、トイレの扉が細く開いていた。ケイは、どこだろう。念のため中を確認するが、誰もいない。洗面所も風呂場も、無人だった。さっと血の気が引く。なんで。どうして。狭い部屋を何度も見回す。窓を開けベランダの隅々にまで目をやる。結果、この家に芙弥しかいないという事実を受け止めざるをえなかった。

 玄関へ行くと、ケイの靴がなくなっている。鍵はかかっているものの、チェーンは外れていた。定位置から鍵も消えているということは、自分の意志で外へ出たということだろう。けれど、どこへ。急に帰らなければいけなくなった? だとしても、あのケイが黙って行ってしまうとは考えにくい。それなら、散歩か買い物か。なんにせよ、どうして一人で行ったのか。

 このまま待っていれば、おそらくケイは帰ってくる。きっと、そうだ。だが、もし彼女の身に、何かあったら。連絡手段がない以上、芙弥にはそれを知ることができない。

 やきもきしながら待っているのを想像しただけで、静けさに押し潰されそうだった。ケイの目的地がどこであっても、芙弥と行ったことのある場所だというのは間違いない。だったら、見つけることも不可能ではないはずだ。

 棚の奥にしまいこんだ合鍵を取り出し、芙弥はマンションをあとにした。

 最初に向かったのは公園だった。いつだったか二人でアイスを食べたベンチをはじめ、遊具のある広場や小さな噴水、公衆電話の裏まで一周してみるが、ケイは見当たらない。もしかしたら、と一度部屋に戻り、まだ帰っていないのを確認してまた外へ出る。駅方面には、思いあたる場所も多い。よく立ち寄るコンビニ、鳩がたくさんいる神社、部屋の彩りを一緒に選んだ花屋、コロッケが美味しい惣菜屋の店先。そのどこにも、いなかった。アイスクリーム屋や本屋も覗いてみるが、やはりいない。どこかで入れ違いになったかもしれない。半ば駆け足でマンションへ辿り着いたところで、駅とは反対の方向から歩いてくる彼女を見つけた。

「ケイちゃん!」

「フミさん」

 ケイが、ばつの悪そうな顔をする。瞬間、かっと頭に血が上った。

「どこ行ってたの!? なんで勝手に……っ」

 ケイの体がびくりと跳ねたのを見て、一度口を閉じる。

 心配して探し回ったのに、その反応は何? よくないことだとわかっていてやったの? ばれないように? 寝ている隙に?

 浮かんでくる詰問を、抑え込む。

「ごめんね。起きたら、いないから、心配したの」

 なんとか体裁を整えながら、ひとつずつ絞り出した。

「何か、急用だった?」

「そういうわけじゃ、ないんですけど」

 そのまま続きを待っていると、ケイは渋々といった様子で「ちょっと、買い物に」と付け足した。たしかに、彼女の手には芙弥がいつも使っているエコバッグがある。

「買い物」

 笑みを作ろうとして、失敗した。吐き捨てるみたいな苦笑に、ケイの眦が険しくなる。

「声、かけてくれたらよかったのに」

 なぜ、こそこそするのだろう。今も、ケイはエコバッグを後ろ手に隠し、中身が見えないようにしている。

「どうして、一人で行ったの?」

「……買い物くらい、一人で行けますよ」

 ケイが唇を尖らせる。質問の答えになっていない。

 頭皮からじわじわと吹き出す汗が、ひどく不愉快だ。

 こんな勝手なことをする子だと思わなかった。信じていたのに、という不満を噛み殺す。これこそ芙弥の勝手で、ケイにぶつけるものではない。

「何もないとは、言いきれないでしょう? 事故に遭うかもしれないし。ケイちゃん、字も読めないから、道に迷ったり、何か困ったりするかもって、心配で。連絡とれなかったら、助けてあげられないし」

 カラカラ、と自分の空回っている音が聞こえる気がした。とり繕った言葉は、ケイに届かない。

 それを裏付けるように、彼女は拒絶を口にする。

「そんなの、自分でなんとかしますよ。子どもじゃないんですから」

「それでも、勝手に出て行くのはやめて。心配――」

「勝手に、って。私がどこで何しようが、フミさんには関係ないじゃないですか」

「そう思ってるんだったら、ケイちゃんはまだ子どもだよ」

 反射的に返せば、強張った表情がくしゃりと崩れた。語調を強める前兆のように息を吸い、けれど彼女は黙って俯きただ肩をわななかせた。

「そう、ですね」

 力なく零し、芙弥の横を抜けてマンションへと入っていく。

 生ぬるい風に髪を散らされ、声にならない呻きとともに芙弥は頭を抱えた。

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