第14話 千花と青色のお風呂
昨日の夜は強い風が吹いていたみたいで、地面は落葉の巨大なカーペットで覆われていた。足元からサクサクと気持ちの良い音がする。その音を聞きながら、わたしもお父さんも茶々も、何も話さずに歩いているうちに、七彩湯に着いた。
「へえ、立派だな。建築のセンスも良い」
お父さんは急に「うーん?」と首をひねった。
「でも、あのクロユリだけは変だな。建物とまるで調和がとれてない」
やっぱり誰が見てもそう思うんだ。今度グローリアさんに青く塗ろうって言ってみよう。
「中はもっと素敵だよ。行こう」
今日も浴槽に浸かっているグローリアさんは、お父さんの顔を見て、「あら、いらっしゃいませ」と言った。
「新しいお客さまね」
「はい。わたしの、えっと、……お父さんです」
「まあ! お父さま! 娘さんにお手伝いをしていただいている店主のグローリアです。はじめまして」
「はじめまして、千花の父の草介です」
グローリアさんと握手をしたお父さんは、浴槽の中の尾ひれを見ると「うわあ!」と声を上げた。悲鳴のような声に、わたしも茶々もグローリアさんも、ビクッと震え上がる。こんなに驚いたお客さんは初めてだったんだもん。
「あ、に、人魚なんですね」
「え、ええ。驚かせてすみません。千花さん、すごくよく働いてくださってるんですよ。そのお礼と言ってはなんですが、お父さまは無料でお風呂に入ってください」
「ああ、ありがとうございます……」
お父さんはまだドキドキしているみたいで、声が少し震えていた。
「うちには七つのお風呂があります。ご要望を仰っていただけば、ぴったりのお風呂にご案内しますよ」
「風呂には詳しくないので、適当なもので大丈夫ですよ」
グローリアさんは「そうですか」と言って、上から下までお父さんをじっくりと見た。
グローリアさんの海のような青い目に見つめられて落ち着かないのか、お父さんはそわそわと肩を揺らしている。それを見た茶々は、バカにしたようにぷうっと鼻息を出した。
「それなら、青色のお風呂へどうぞ。千花、案内してくれる?」
「はい。こっちだよ」
わたしは茶々をグローリアさんに預けると、まだドキドキしているお父さんを青色のドアの方へ案内した。
ここもはじめて見るお風呂だ、中はどんなだろう。やっぱり青色なのかな?
わたしもドキドキしながらドアを開けた。
そして想像通り、中は青一色だった。
天井からつり下がる小さな青色のプルンバゴは、イチジク型の窓から差し込む朝日をチラチラと反射させている。まるで晴れの日の雨みたい。
天井も壁も床も、深い青色のタイルが貼られていて、海の中にいるような不思議な気持ちになった。ここなら、潮のにおいがしたって驚かない。
でも実際は潮のにおいじゃなくて、南国に咲いていそうなやわらかい花の香りがただよっている。その香りは、洗い場の棚を埋め尽くすように並ぶネモフィラの置物から流れてきた。
床に埋まった浴槽には、波のような形の手すりがついていて、湯舟の中まで伸びていた。このお風呂は今までの浴槽よりも深いのかな。
「……中も本当にすごいな。正直言葉が出てこないよ」
「七彩湯のお風呂はどれも素敵なんだよ」
そう答えながら砂時計を探したけれど、ここにも砂時計はなかった。つまり、どれだけ入っているかはお客さん次第ってことか。
「それじゃあ、ゆっくりしてね。わたしは外で待ってる」
「ああ、ありがとう。なるべく急ぐよ」
お父さんと別れてグローリアさんの方へ歩いて行くと、茶々はすっかり目を覚まして、浴槽の中をスイスイ泳いでいた。
「茶々と遊んでくれてありがとうございます、グローリアさん」
「いえいえ。千花こそ案内ありがとう。それにしても、お父さまと久しぶりに会えたのに、うちに連れてきて良かったの? お風呂に入ってる間は話せないじゃない」
「……そういえば、そうですね」
わたしは浴槽のそばが定位置になった小さなイスに座った。そしてグローリアさんの優しい笑顔を見つめながら、じっくりと考えた。
どうしてお父さんを七彩湯に連れて来たんだろう。顔も声も覚えてないくらい久しぶりなんだから、時間をかけてでもいいから、何か話しをすればよかったのに。
「……緊張してたのかもしれません。でも、七彩湯に行けば、安心すると思ったから、来ました」
思いついたことを口に出すと、グローリアさんは歯を見せてニッと笑った。
「うれしいこと言ってくれるじゃない。でもそうね。確かに今の千花にも、お風呂は必要だわ」
「あ、でも、今は入れないんです。じきに帰るって言ってたから、わたしの方が長くお風呂に居たら、見送りができないので」
「じゃあ、また明日にでもね。その時は、今の千花にぴったりのお風呂を勧めるわ」
それからお父さんを待つ間、グローリアさんも一緒に「どっちにあるでしょう」ゲームをした。お父さんは意外にも長くお風呂に入っていて、出てきたのは一時間も経った頃だった。
ドアの開く音がした方を見ると、ほほを赤くしたお父さんが立っていた。
あれ、なんだかお風呂に入る前よりも優しそうに見える。テカテカしていた髪はフワフワしていて、ずっと力が入っていた眉は柔らかい山の形を描いていて、目もとろんとしていて、何より、あのツンとした匂いが少しも感じられないからかな。
「いやあ、気持ちよかった。こんなに落ち着く風呂に入ったのは初めてだよ。東京にも名高い温泉はいくらでもあるが、それにも引けを取らない」
「それは良かったです。草介さんは少し気を張っているようだったので、視覚からも落ち着けるように、青色のお風呂を勧めたんです。青色にはそういう効果がありますから。だからうちの外観も青色をしているんですよ」
へえ、知らなかった! だからわたしも七彩湯に来ると落ち着くのかな。
チラッとお父さんの方を見ると、お父さんもわたしと同じように驚いた顔をしていた。
「では
お父さんはにっこりと笑って、わたしの前にかがみこんだ。
「長い間一人にしていたのに、ろくにあいさつもせずに、イライラしてすまなかった」
「……うん、ちょっと悲しかった」
「ごめんな。それと、ただいま。短い時間だけど、千花と過ごせて、顔を見られてうれしかったよ」
お父さんはにっこりと笑って抱きしめてくれた。
あ、お花の香りがする。こっちの方が、あのツンとした匂いよりもお父さんに似合っているような気がする。
「おかえりなさい、お父さん」
家に帰ると、お父さんはおばあちゃんに改めて「ただいま」と言って、笑顔で握手をした。そして、おばあちゃんが作ったチキンのハーブ焼きとジャガイモとチーズの重ね焼きをモリモリ食べて、また仕事をしに出かけていった。
「まったく忙しないわねえ」
「でもお風呂はすごく長く入ってたんだよ。これまでの七彩湯のお客さんの中で一番! 七彩湯を気に入ったって言ってた」
おばあちゃんは困ったような笑顔を浮かべて「そう」と答えた。
「草介に
おばあちゃんはいじわるな顔でお父さんの後姿をにらんでから、ギュウッと抱きしめてくれた。
自分が「飛び切り良い子」かどうかはわからない。
だって本当は今も、お仕事に向かうお父さんのことを呼び止めたいと思ってるもん。でも、お父さんに何を話したらいいのかはやっぱりわからないし、ここにはおばあちゃんも茶々もグローリアさんもいる。みんなのおかげでさみしくないから、「良い子」にしていられるのかもね。
わたしがそう伝えると、おばあちゃんは泣きそうな顔でいっそう強く抱きしめてくれた。
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