七彩湯へようこそ!

唄川音

第1話 千花は山奥でお風呂屋を見つける

「おばあちゃーん! 水やり終わったよー!」

 ジョウロに残った水をチョロチョロとこぼすと、足元にいたカワウソの茶々はキュウキュウ鳴いて喜んだ。水をたっぷり浴びたミントやローリエが咲くハーブ畑も、喜んでいるみたいにきらきらと光る。

「ありがとう、千花」

 丸いナナカマドの木の後ろから、園芸用のハサミを持った晴乃おばあちゃんがひょこっと現れた。

「あ、今度は剪定せんていするの?」

「ええ。でもあとは一人でやるから、大丈夫よ。学校から帰ってから、宿題を終わらせて、ラベンダーを煮て、庭の手入れもしてるでしょう」

 「遊んで来なさい」と言って、おばあちゃんはわたしの手からジョウロを取り上げた。

「どれも楽しかったから、わたしにとっては遊んでるのと同じだよ。ねえ、茶々?」

 わたしに抱き上げられた茶々は、「キュー!」と元気よく鳴いて、土で汚れた小さな手を上げた。でもおばあちゃんは厳しい顔で、「どれも『遊び』じゃなくて『手伝い』でしょう」と言った。

「一昨日もわたしの薬草教室の準備を、昨日も菫のところでブドウの収穫を手伝ったでしょう。働きすぎよ。子どもは遊ぶのが仕事です」

 こうなったおばあちゃんはテコでも動いてくれないのを知っているから、しかたなく「はーい」と答える。

 もう小学六年生なのに、おばあちゃんの中ではいつまでも子どもなのかな。

「それじゃあ、今日は天気がいいから、茶々と外で遊ぶよ」

「ぜひそうしてちょうだい。あ、でもあんまり山奥まで行っちゃだめよ。それから、つり橋には気を付けること」

 つり橋とは、わたしたちのお家がある虹光山こうこうやまの、真ん中よりも少し上の方にある、すごく深くてすごくくらーい谷の上にかかっている橋のことだ。ちょっと歩くだけでグラグラ揺れて、ギイギイ音が鳴る不気味なんだ。

「大丈夫! あんな怖い場所には、学校に行く時しか近づかないから」

 わざとらしくブルリと体を震わせてみせると、おばあちゃんはクスッと笑った。


「――さて。何して遊ぼうか、茶々。高おに?」

 茶々は首を横にふった。

「影ふみ?」

 また首を横にふる。

「それじゃあ、鬼ごっこ?」

「キュー!」

 茶々の気持ちの良いお返事で、鬼ごっこに決まった。


 十数えてから、鬼になったわたしが茶々を追いかけ始めた。

「待ちなさーい、茶々!」

「キューッ!」

 茶々は元気よく鳴きながら、背の高い木が生えた道という道がない山の中をすばしっこく走っていく。でもわたしだって走るのは得意なんだから!

「ほら、捕まえちゃうよー!」

 あと少しで細長いしっぽに手が届く! 

 そう思ってぐっと手を伸ばした瞬間、右手にあったやぶからガザッと音を立ててウサギが飛び出してきた。すると茶々は「キューッ!」と悲鳴を上げて飛び上がった。そして、山の奥に向かって全速力でかけ出した。

「待って、茶々! ウサギだよ!」

 そう叫んでも、驚いてパニックになっている茶々はどんどん走って行ってしまう。

「茶々! 待ってよ!」

 木の葉が落とす影が増えて、うっすらときりが立ち込めて、自分の周りが少しずつ少しずつ暗く、冷たくなっているのも気づかずに、小さな茶色い背中を見つめて走り続けた。

 そしてようやく茶々が立ち止まると、わたしは茶々に飛びついて、細い体を両手でガッチリとつかんだ。

「大丈夫、茶々? 急に飛び出してきて驚いただろうけど、ウサギだから怖くないよ」

 はあはあしながらそう言うと、落ち着きを取り戻した茶々は、小さな手で前を指した。

 目の前には、空と湖と海の一番きれいなところを使ったような青色の建物が建っていた。

 深い青色の看板には、白色の小さな石を使って「七彩湯しちさいゆ」と書かれている。

 ハの字型に広がった五段の石階段、太くて立派な柱に囲われた両開きの巨大なドア、イチジク型の大きな窓、チューリップとゼラニウムが立体的に彫刻された壁、大きな波のようにぐにゃりと曲がった屋根、と下から順番に見上げていく。どこを見てもすごくきれい。

 最後に、屋根の上にどっしりと腰を下ろすクロユリの銅像が目に入った。

 あの銅像だけは、この建物に似合ってない気がする。

「『七彩湯』ってことは、お風呂屋さんかな?」

 わたしと茶々は一緒に首をかしげた。

 わたしは時々、おばあちゃんと一緒に町のお風呂屋さんへ行く。湖みたいに大きな浴室があるお風呂屋さんは、いつも両開きのドアが開いている。中からはお風呂の温かい空気が流れてきて、それと一緒に楽しそうな声が聞こえてきた。

 でもここは、ドアがぴったり閉まっていて、温かい空気は感じられないし、人の声も聞こえてこない。

「今日はやってないのかもね。おばあちゃんに話して、今度一緒に来てもらおう。その時は開いてると良いね」

 わたしがくるっと元来た道の方を向くと、茶々はするりとわたしの手から出て、七彩湯の方へ走っていった。そして一生懸命背伸びをして、ドアを開けようとした。一本のチューリップの形をした鉄製の細長いドアノブを、小さな爪でカリカリひっかいている。

「茶々ったら、どうしても気になるんだ」

 そう言ったわたしも、本当は中がすごく気になっていた。これだけ見た目が豪華なんだから、中もきっとすごいはずだもん。

 わたしは茶々の隣に立って、花の鉄細工がついたドアをノックした。するとすぐに中から「いらっしゃい」という澄んだハープのような声が聞こえて来た。

 誰かいるんだ!

 茶々はいっそう興奮して、ドアノブをカリカリひっかいた。

 ドアノブに傷が付いたら大変!

 わたしは急いで茶々を抱き上げ、空いている方の手でドアを開けた。その瞬間、中から温かい空気と一緒に、ほんのりと草原のような草の香りが漂ってきた。

 部屋の中央にいた女の人は、わたしを見ると、目をキラキラ輝かせてにっこりと笑った。

「いらっしゃい! 初めてのお客さま」

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