第20話 千花と星空色のお風呂

 わたしと茶々と、足が自由になったグローリアさんは、一緒になって洞男が入ったお風呂のおそうじをした。

 道具入れにあったあの長いデッキブラシは、馬の足を持つケンタウロスとなったグローリアさんの身長にぴったりだった。

「これはグローリアさんが使ってたんですんね」

「ええ。わたしは身長が二メートルちょっとあるからね」

 今までずっとわたしよりも低いところにあったグローリアさんの顔が、今では頭の遙か上にあるのは、不思議な感じがした。でも、茶々と一緒にはしゃいでおそうじをするグローリアさんの笑顔が今までと変わらなかったから、すぐに身長のことなんて気にならなくなった。どんな姿でもグローリアさんはグローリアさんだもん。


 おそうじが済んで緑色のお風呂から出ると、グローリアさんは元居た浴槽がある部屋の左の壁沿いの棚にかけていった。

「見てみて、千花」

 わたしはワンピースで手についた水をぬぐいながら、グローリアさんの隣に立った。

「あ、ここって精油が入ってるんですか?」

「そうよ。わたしの故郷で採れた薬草の精油と、ドライハーブの粉、それからお風呂に置くためのアロマストーンが入ってるの。ここにも手が届かなくなっちゃって、本当につらかったわ。お風呂に置いてある花のアロマストーンの香りも、そのうち消えちゃうでしょう。どうしようってずっと心配してたの」

「頼んでくれたら、わたしがいくらだって運んだのに」

「それすらも言えないようにされてたのよ。洞男は自分に薬草が効くって知ってるのね。ここを建てている時も、この棚にだけは近寄らなかったから」

 グローリアさんはねじ式の鍵をクルクル回して開けると、愛しそうな目で手に取ったビンを一つひとつじっくりと見た。

 カモミールのビンを手に取ると、ガラスでできた栓を抜いて、鼻のそばで左右に揺らした。花の甘い香りが、わたしのところまで流れてくる。

「ああ、いい香り。夢みたいだわ。でも夢じゃないのよね、二人のおかげで」

「ふふ。よかったですね、グローリアさん」

 「ええ」と笑って、瓶を戻したグローリアさんは、今度は黒っぽい薬草の粉が入った瓶を手に取って、手の中でコロコロと転がした。

「……ねえ、千花。洞男のこと、どう思う?」

「え、うーん、そうですね。もう会いたくないなって思います。グローリアさんにひどいことをしていた人だし、あの黒い目、すごく怖かったから」

「ふふ、そうよね。わたしも、できればもうかかわりたくないわ。……でもね、おかしいって思われるかもしれないけど、わたし、これからは、洞男のせいで不幸になった人たちはもちろん、洞男たちのことも、癒したいって思うの」

 わたしは茶々を抱き上げて「……洞男も?」とじっくり時間をかけて言った。

「……ええ。彼らは、わたしっていうグローリア個人が邪魔なんじゃなくて、わたしのように人の不幸を癒す人や、人を幸せにする人が邪魔なだけなの。自分たちの力の源である不幸が減るから。彼らも生きるためだから、必死なんでしょうね。でも、この世はいろんなもので満ちてるわ。だから、彼らが不幸なんかを吸わずに生きられる方法を、一緒に探したいの」

 グローリアさんはわたしの方を見ないで、「おかしいわよね」と苦笑いをした。

 わたしは何も答えずに、黙ったまま考えた。

 グローリアさんを傷つけたことと、六年もの間ここに閉じ込めてたことは許せない。でも、それはさっき怒った。

 茶々のことを侮辱したことも、さっき怒った。

 それじゃあ、わたしがもう洞男に怒る理由は無くなったってことだ。

 でもこうしている間にも、洞男たちは自分のために、誰かのことを不幸にしているんだよね。それはいやだ。もう誰も、グローリアさんみたいな悲しい思いをしてほしくないもん。

 体をぐっと動かして、グローリアさんと無理やり目を合わせる。グローリアさんは怒られる前の子どもみたいな顔をしていた。

 これは初めて見る表情だ。なんだかかわいいなと思った。

「グローリアさんらしい考えですね。わたしも賛成です! 洞男のせいで悲しい思いをする人をこれ以上増やさないためにも、わたしたちで考えましょう!」

 腕の中の茶々に「茶々はどう?」と尋ねると、「キュー!」と元気のいいお返事が返ってきた。茶々も賛成みたい。

 グローリアさんは眉をハの字にして、ため息交じりに「ありがとう」と言った。

「千花と茶々が一緒なら百人力だわ」

「百人力ってなんですか?」

「無敵ってこと!」

 グローリアさんは真っ白い歯を見せて、ニッと笑った。


 ドイツにある故郷へ行けば、両親や同じような仕事をしている人たちから知恵を借りられるだろう、とグローリアさんは話した。家族に会えるのも六年ぶりだからか、ちょっとそわそわしている。

「ずっと手紙を送れなかったから、心配してると思うわ。まずはこれまでのこと全部話さないとね」

 グローリアさんはがっくりと肩を落として、「不注意だって怒られるだろうなあ」とつぶやいた。

「それならわたしも一緒に行くのはどうですか? そしたら怒られた時に、かばったりなぐさめたりできますよ」

「うわあ、それってすっごく心強いわ! ありがとう、千花!」

 グローリアさんはわたしをがばっと抱きしめた。

「千花と茶々には故郷の景色を見てもらいたいと思ってたから、一緒に行く口実ができてちょうどよかったわ。晴乃さんにも相談して、三人で故郷へ行きましょう!」

「やったあ! 楽しみです!」


 グローリアさんに、「お礼をしたいから明日また来て」と言われたわたしと茶々は、ウキウキしながら家に帰った。

 どんなお礼だろう。お礼が欲しくてお手伝いを始めたわけじゃないけれど、楽しみで仕方がない!

 家に帰って、おばあちゃんに今日の話とグローリアさんの話をすると、おばあちゃんはわたしと茶々をうんと褒めてくれた。

「グローリアさんの言う通り、薬草のお守りのおかげで、もう七彩湯に洞男が近寄ることはないわね」

「おばあちゃんもそう思う?」

「ええ。わたしも薬草の力を借りて人を癒しているけれど、洞男に狙われたことはないでしょう。うちの庭で採れた薬草は、素晴らしい力で満ちているからね。わたしたちを守ってくれてるのよ」

 おばあちゃんは窓の外に見えるナナカマドの木を見た。

「おばあちゃんが大切に育ててるから、植物も応えてくれるんだね」

「そうよ。千花も一生懸命お世話をして愛情を注いでいるから、助けてもらえたのよ」

 おばあちゃんはにっこりと笑った。

「さあ、これでこれからは安心して七彩湯を営業できるわね。千花と茶々も気合を入れてお手伝いしなきゃ」

「うんっ。世界中からお客さんが来て、みんなが幸せになるようなお風呂屋さんをやるんだ、茶々とグローリアさんと一緒に!」

 わたしがそう言って笑うと、おばあちゃんは目を細めてわたしの頭をなでてきた。

「千花ったら、知らないうちにどんどん大きく、頼もしくなるわね。千花のこと、誇りに思うわ」

「本当?」

「ええ。立派なお姉さんになったわね、千花」



 次の日七彩湯に行くと、新しいシャツに身を包んだグローリアさんが外まで出迎えに来てくれた。

「いらっしゃいませ、千花さん、茶々さん。本日は七彩湯にご来店いただき、誠にありがとうございます」

 グローリアさんの改まった態度にクスッと笑って「ありがとうございます」と答える。

「本日は、お二人にぴったりのお風呂へご案内させていただきます」

 案内されたのは金色のドアの前。

 最初に来た時から、このドアがずっと気になっていたの。そこに案内してもらえるなんて夢みたい!

「どうぞ、お入りください」

 ドキドキと高鳴る心臓の音を聞きながら、茶々と一緒にドアを開けた。

「……うわあ! 夜空だ!」

 お風呂の中は、壁も、床も、天井も、それから浴槽に棚、水瓶まで、全部が夜空色をしていた。夜空色の中には細かい金色が混じっていて、それは夜空というよりも星空色だった。

「ラピスラズリをふんだんに使ったお風呂になります。こちらは浴槽が二つあって、一つは人間専用、もう一つは動物専用です」

「えっ! それじゃあ、茶々と一緒にお風呂に入れるってことですか!」

 グローリアさんは笑顔でうなずいた。

「人間用のお風呂にはラベンダーの精油を混ぜたお湯を、動物用の浴槽は汲み立ての川のお水を入れてあります。喜んでいただけますか」

 わたしはグローリアさんにガバッと抱き付いた。茶々もグローリアさんの足をスイスイ上って背中にしがみついて、「キュー!」と元気よく鳴いた。

「大喜びだよ、グローリアさん! ありがとう!」

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