第5話 千花は虹光町のことを知る

 ボトンドさんという記念すべき第一号のお客さんが来たのは、本当にうれしかった。ちゃんと七彩湯のお手伝い係としての役目を果たせたんだもん。

 その興奮からか、今日の夕食は豚汁を三杯もおかわりしてしまった。

「そんなにお腹がすいてるなんて、たくさん遊んだ証拠ね」

 おばあちゃんはニコニコしながら、ごはんをもう一杯よそってくれた。

「うんっ。すっごく楽しかった」

 遊んでいたわけじゃないけれど、楽しかったのはウソじゃない。おはしを動かしながら答えると、おばあちゃんはいっそうニコニコして、「いいことね」と声を弾ませた。


 次の日も放課後に備えてたくさん朝食を食べて学校へ行った。まだちらほらとしか生徒がいない廊下をスキップして通り過ぎ、教室のドアを開けると、一番の仲良しであるすみれが机につっぷしてぐったりと座っていた。

「……おはよう、菫。大丈夫?」

 恐る恐る声をかけると、菫はのっそりと顔を上げて、弱弱しく笑った。

「……おはよう、千花。驚かせちゃったね」菫は恥ずかしそうにワンピースについたしわ伸ばした。「昨日の収穫でつかれちゃって、ちょっと寝てたの」

 菫のお家は、町で一番広いブドウ畑を持っているワインの醸造所だ。八人の家族以外にも従業員さんがたくさんいるらしいけど、菫も毎日のようにお手伝いをしている。そのせいか、夏の終わりから秋にかけての菫はいつも疲れていた。

「お疲れさま、菫。よかったらわたしもまたお手伝いに行くよ」

「ふふ、ありがとう。千花は優しいなあ」

 菫は隣に座ったわたしにギュウッと抱き着いてきた。

「……そんな千花に言うことじゃないかもしれないけど、わたしは正直、あの谷には感謝してるんだよね」

「虹光山の谷のこと? どうして?」

「だってあの谷ができなかったら、父さんはもっとブドウ畑を広げるつもりだったんだもん。これ以上広かったら、わたし絶対に逃げ出してた」

 菫は「おいしいワインのためって言われても、まだ飲めないわたしは、どうやったってやる気が出ないよ」と言って、意地悪な笑顔を浮かべた。

「え、ちょっと待って、菫。あの谷って昔からあるんじゃないの?」

「あの谷ができたのは、確か五年前くらいだよ。あれ、違うかな?」

 記憶を探りながら話す菫によると、あの谷ができたのは六年前の秋ごろで、あのつり橋が完成したのは、わたしが虹光町に来た年と同じ五年前だそうだ。想像していたよりもずっと最近の出来事だったんだ。吊り橋がギイギイうるさいから、てっきり古い橋なのかと思ってた。

「谷ができた時は、世界の終わりだと思った。一生分の雷が一度に鳴ったみたいな音がして、家具が全部倒れちゃうくらい家が揺れたの。それで日が昇ってから町の人みんなで見に行ったら、谷ができてたんだ」

 その時の恐怖を思い出した菫の顔は真っ青で、体はぶるぶると小さく震えていた。

 感謝してるだなんて言ってたけど、怖かった気持ちは無くならないよね。

 わたしは菫の肩をゆっくりとさすった。

「大変だったね。おばあちゃんからあの橋や谷について話してもらったことってないけど、あの谷ができた時も、おばあちゃんは今の山のお家にいたんだよね?」

「うん。町の人は、晴乃はるのさんが助かったのは奇跡だって言ってた。晴乃さんは自然とともに暮らしている人だから、きっと山の精霊さまが守ってくれたんだよ」

「確かに、おばあちゃんなら精霊さまとも仲良くなれそう」

 おばあちゃんが妖精とおしゃべりしながら、庭仕事をしているところなんて、簡単に想像できる。

 わたしと菫はフフッと笑いあった。



「――あなた、晴乃さんのところの千花よね?」

 放課後、クタクタな菫を励ましながら学校から出るとすぐに、どこかで見た覚えのある女の人が声をかけてきた。

「はい、そうです」

「わたしは晴乃さんの教室に通っている藤よ。何度かお家で会ったことがあると思うんだけど」

「ああ、はい。思い出しました」

 おばあちゃんは午後のお日様が温かい時間に、ハーブの使い方を教える教室を開いている。心を元気にしたり、安心させたりするハーブを教えるおばあちゃんは優しい魔女みたいに見える。わたしはそんなおばあちゃんを見るのが大好きで、時々教室をやっているところをのぞいているんだ。

「何かご用ですか?」

「実は、一緒に教室に通っているくすのきさんが大変なの。朝から頭が割れそうなくらい痛くてつらい、って騒いでてね。晴乃さんのアロマテラピーを受ければすぐに良くなるって言って聞かないのよ」

 藤さんは困ったように大きなため息をついた。

「それは大変ですね! 今家に帰るところなので、おばあちゃんを呼んできましょうか?」

「頼むわ」

 わたしは「はいっ」と答えながら、もう走り出していた。後ろから菫の「気を付けてね!」という声が聞こえてきて、手を挙げて応えた。

 今は午後の二時半。朝から頭が痛いってことは、もう何時間も痛いってことでしょう。それも割れそうなほどだなんて! そんなのつらすぎる!


 橋をガシャガシャふみ鳴らしながら大急ぎで帰ったのに、おばあちゃんはそんなに驚かなかった。

「ああ、楠さんね。それじゃあちょっと帰りが遅くなるかもしれないわ」

 おばあちゃんは、ハーブティを淹れた魔法瓶を二つ、精油の小瓶がぎっしり入った木箱、オイル入りのビンを一本、それから匂い袋が入った箱を大きなカバンに手際よく詰めた。

「千花がうちに来る前も、よく楠さんを看病しに行ってたの。ラベンダーとカモマイル・ローマンの精油を入れたオイルでマッサージすると、頭痛が良くなるからね。ずっと調子がよかったんだけど、最近また頭痛がするようになったって言ってたのよ」

「……おばあちゃんが行けば、楠さん、よくなる?」

「もちろん! だから心配しないで」

 おばあちゃんはきれいに並んだ白い歯を見せて、ニカッと笑ってお家を出て行った。

 この町には病院が一つしかない。だからみんな市販のお薬や軟膏なんこうを使って、たいていの病気やケガを自分たちで治している。

 でもそれだけじゃよくならないこともある。そういう時に頼りにされているのが、ハーブに詳しい晴乃おばあちゃんだ。アロマテラピストの資格を持っているおばあちゃんは、月に二、三回は、具合の悪い人に呼ばれて看病をしに行く。一緒に作ったタイムのシロップや、セントジョンズワートのオイルを持ってね。

 大変そうだけれど、人のためにがんばっているおばあちゃんはすごくかっこいい。

 わたしもグローリアさんの役に立ったら、おばあちゃんみたいな人に近づけるかな? 

 そう考えるとワクワクしてきた!

 軽やかに階段を上って部屋に入ると、茶々は窓際の机の上でクウクウ寝息を立てていた。ギイギイいうドアの音でも起きないから、すっかり夢の中みたい。

 起こさないようにカバンをそうっと置いて、ベッドの下のチラシを取り出す。そして忍び足でドアの方に歩いて行くと、後ろで「キュッ!」と声が上がった。

「あ、茶々ったら起きちゃったんだ」

 茶々はターッとわたしの体をかけ上って来て、肩まで来ると「キュウキュウ!」と激しく鳴いた。置いて行かれると思って怒ったみたい。

「ごめんごめん。気持ちよさそうに寝てたから。でも、一緒に来てくれるならうれしいな」

 置いて行かれないとわかった茶々は、ぷうっと鼻を鳴らしてうなずいた。

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