第6話 千花と紫色のお風呂
「――お風呂屋の七彩湯でーす。入れば元気になること間違いなし! いかがですかー」
今日もチラシをひらひらふりながら目抜き通りを歩いた。今日は二回目の宣伝だからか、興味を持って近づいてくる人がちらほらいた。
「チラシもらってもいいかしら?」
「はい、もちろんです」
「このお風呂屋はどこにあるの?」
「山の中をずっと北に行ったところです」
「ちょっと遠いわね」
「わたしのお家が近くにあるので、案内しますよ」
チラシの五分の一くらいが無くなったけれど、誰も「行ってみよう」とは言ってくれなかった。みんなたいてい「遠過ぎね」と言って肩をすくめた。
「わたしのお家からはすぐだけど、町から行くとなると遠いと思われちゃうんだね。でも、あんなに大きなお風呂屋さんを移動させることなんてできないし、どうしたら良いんだろう」
目抜き通りを出て、ふうっとため息をついた時、後ろから「お風呂屋のお嬢さん」と呼び止められた。声をかけて来たのは、藤さんと同い年くらいに見えるほっそりした女の人だ。
「あの、そのお風呂屋さんのチラシ、もらってもいいかしら」
「もちろんです。どうぞ」
女の人は長い髪の房を後ろに払いながら、真剣な顔でジッとチラシを見た。
「……町からずいぶん離れてるのね」
「あ、はい。でもとっても素敵なお風呂屋さんなんですよ。入れば笑顔になること間違いなしです!」
「……そうなの」
女の人は不安そうな顔で辺りをキョロキョロ見回した。
「……ねえ、ここからどれくらいかかるの?」
「三十分もあれば着きますよ」
「……それじゃあ、案内してくれない? 行ってみたいの」
「本当ですか! やったー! ありがとうございます!」
わたしと茶々が飛び跳ねて喜ぶと、女の人は少しほほを赤くしてうなずいた。
「――ここが七彩湯ですよ」
百合さんと名乗った女の人は、緑一色の山の中に空が落ちてきたみたいに見える真っ青な七彩湯をじっくりと見た。そして真っ黒いクロユリを見ると、少しだけ首をかしげた。
やっぱりあの銅像だけは変だよね。
「立派ねえ。こんなところにいつの間にお風呂屋さんが建ったの?」
「え、ええっと……」
わたしは困ってしまった。だって、いつ七彩湯が開店したのか、わたしも知らないんだもん。
「お手伝いを始めたのが、一昨日からなので、……知らないんです」
「あら、そうなの。一昨日からとは思えない良い働きぶりね」
「本当ですか!」
「ええ。あなたの笑顔を見て、行ってみようって思ったから」
そんなうれしいこと言ってもらえるなんて!
空まで飛び上がってしまいそうなほどうれしい気持ちになった。
「ありがとうございます! さあ、どうぞ!」
ニマニマしそうになるのをこらえながらドアを開けると、今日もグローリアさんは部屋の中央の浴槽の中に居た。茶々は浴槽の方へターッとかけて行き、グローリアさんの濡れた手に抱き上げられた。お水に入りたかったんだね。
「あら、新しいお客さまね」
「はい。百合さんです」
グローリアさんの尾ひれに気が付くと、百合さんは一瞬驚いた顔をして、「あら」と言った。でも、グローリアさんの優しい笑顔を見ると、すぐに安心したみたいだった。
「はじめまして。良いお風呂屋さんですね」
「まあ、お風呂に入る前からそんな風に言ってもらえてうれしいですわ。さて、うちには七つのお風呂があります。ご希望を仰っていただけば、最適なお風呂をお選びしますよ」
「まあ、そんなに? すごいですね。……それじゃあ、心も体もリラックスできるお風呂に入りたいです」
「ふむふむ。それなら紫色のドアのお風呂へどうぞ。千花、案内してくれる?」
「はいっ。百合さん、こちらですよ」
ボトンドさんの時とは違うお風呂だ。今度のドアにはクレマチスの絵が描かれている。中はどんなふうになっているんだろう。
わたしはドキドキしながら百合さんに中が見えるようにドアを開けた。
「まあ、素敵っ」
百合さんはおもちゃをもらった子どもみたいなかわいい声を上げた。
その後ろからお風呂をのぞきこんだわたしも「わあ」と声を上げてしまった。
紫色のドアのお風呂は、紫色でいっぱいだった。
天井も壁も床も紫色のタイルが貼られていて、クレマチスの花が無数に描かれている。
その天井からは小さい鉛筆型の石がいくつも釣り下がっていて、お姫さまが住んでいるお城のシャンデリアみたいに見えた。
黄色いドアのお風呂の浴槽は、床に埋まっている大きな四角いものだった。でもこのお風呂の浴槽は床の上に置いてあって、二人くらいが足を延ばして並んで入れる大きさだ。
大きな宝石箱みたいに見える紫色の浴槽の向かいには、同じ色の広々としたソファが置いてあった。
「あ、なにかお花の香りがするわね」
百合さんは鼻をクンクンさせながらお風呂の中を見回した。
「ラベンダーですね」
ラベンダーの香りは、洗い場の棚の上に並んでいるクロッカスの置物から香って来た。
百合さんは「いい香りねえ」と言って、うっとりと目を閉じた。
「では、砂時計が落ちるまで……」
「砂時計?」
そう言われてお風呂の中を見回すと、このお風呂には砂時計が無かった。
わたしは慌ててグローリアさんのところへ戻った。
「グローリアさん、砂時計がないんですけど」
茶々とお水の中で遊んでいたグローリアさんは、水しぶきを上げて顔だけを出した。
「ああ、無くていいのよ。百合さまには好きなだけ入っていてください、と伝えて」
「えっ、それで良いんですか?」
「ええ。彼女には必要ないわ」
そう答えると、グローリアさんはまた茶々と一緒にお水の中にもぐってしまった。
百合さんに好きなだけ入ってください、と伝えて紫色のお風呂のドアを閉めると、わたしはグローリアさんの浴槽のそばへゆっくりと歩いて行った。
「ありがとう、千花。あっちにイスがあるから、よかったら持って来て座って」
グローリアさんがぽたぽた水を垂らしながら指さした部屋の左角に、背もたれのない木製のイスが一つ置いてあった。
「ありがとうございます。借りますね」
座り心地が良いとは言えないけれど、床に座っていた昨日よりは快適だ。
しばらく二人が水遊びをしている様子を見ていると、「ぷはっ」と声を上げながらグローリアさんが顔を出した。
「ふー、茶々ってば元気いっぱいね。ちょっと疲れたから休憩しましょう」
「いっぱい遊んでもらってよかったね、茶々」
びしょびしょの茶々を抱きあげると、茶々はブルブルと体をふって水をまき散らした。
「千花と茶々って本当に仲良しよね。茶々ったら千花のことばっかり話すんだもの」
「えっ、そうなんですか。うれしいなあ」
わたしが茶々の方をにやにやしながら見ると、茶々はちょっと恥ずかしそうに両手でほっぺたを触った。
「二人はいつ出会ったの?」
「わたしがおばあちゃんのところに来た時だから、五年前ですね。おばあちゃんと虹橋川沿いをお散歩してたら、茶々がケガをして倒れてたんです。すごく血が出てて、息も苦しそうで。でもおばあちゃんのお手製のお薬で手当てをして、お魚をたくさん食べさせてあげて、いろんなお話を聞かせてあげたら、一週間で元気になったんですよ! それからずっと一緒です。学校には連れて行けないけど、他の時間はずっと一緒。ね、茶々」
茶々は元気よく「キュウッ!」と鳴いた。
「それじゃあ最高の親友ってことね」
グローリアさんはまるで自分のことのようにうれしそうに笑ってくれた。
「ところで、おばあさまと一緒に住んでるの?」
「はい。お母さんとお父さんは、東京でお医者さんをしてるので。五年前からおばあちゃんと茶々と暮らしてるんです」
「そうだったの。それなら今度おばあさまを連れてきてちょうだい。かわいくてよくできたお孫さんにお手伝いをしてもらっています、ってごあいさつしたいからね」
「わあ、良いんですか! あ、でも。……実は、わたし、おばあちゃんにまだ、お手伝いのことを、話せていないんです」
わたしはささくれたイスのふちに触りながら答えた。
「あら、そうだったの。どうして?」
「おばあちゃんは、わたしにもっと遊べって言うんです。お家のお手伝いとか勉強とかも大切だけど、今は遊ぶのが一番大事だからって。わたしは七彩湯のお手伝いをすごく楽しんでるけど、おばあちゃんはきっと遊びじゃないって言って、やめるように言うと思うんです。だから、言い出せなくて……」
わたしが話し終わる前に、紫色のドアが開いて、お風呂から百合さんが出て来た。
「あー、良いお湯だった」
「お早いですね」
わたしがかけ寄ると、百合さんは「長い方よお」と言った。
「いつもは自分のことなんて後回しなの。あんなに大きな鏡の前で、良い香りのする石けんで体のすみずみまで洗って、五分以上も足の延ばせる湯船に浸かったのなんて、数十年ぶりだったわ。幸せだったあ」
この時初めて百合さんのきれいに並んだ歯が見えた。笑った顔がすごくかわいい人だったんだ。
「それはよかったです」とグローリアさん。
「ありがとうございました。また必ず来ます。いつになるかはわからないけど……。ここに来ることを心の支えに、がんばります」
「うれしいです。またお会いできる日を楽しみにしていますね」
グローリアさんと百合さんは笑顔で握手をした。
お代のお金を払った百合さんは、ラベンダーの香りをまとって、笑顔のままで帰っていった。その姿は、ご機嫌なお花の精みたいだった。
「百合さんも喜んでくれましたね」
「ええ。自然と笑顔になれたってことは、きっと心も元気になれたんじゃないかしら。ラベンダーの香りには人の心を落ち着けて、安らげる力があるから。どんなに忙しい人でも、あの空間であの香りに包まれたら、短い時間でも充分癒されるのよ」
「それじゃあ、あの紫色のお風呂は、百合さんにぴったりだったんですね。すごいです、グローリアさん」
グローリアさんは得意げにニヤリと笑って、「まあね」と答えた。
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