第9話 千花と黒色のマントを着た男

 男の人は頭の先から足の先まで、全身真っ黒だった。夕日色に染まる森の中でたった一つだけ夜のように黒い姿を見たわたしは、なぜか七彩湯の屋根についたクロユリを思い出した。

 ちょっと不安な気持ちになりながらも、笑顔を作って、「はい、なんですか?」と尋ねる。

「このチラシを見て来たんですが、この辺りにお風呂屋さんがあるんですか?」

 男の人が見せて来たのは、わたしが配っている七彩湯のチラシだ。

 やった! 七彩湯の役に立てる!

 わたしはうれしくなって「そうですよ!」と自信満々に答えた。

「それを配っているのはわたしですから、よかったらご案内しましょうか?」

「ぜひお願いします。この辺りに来たのははじめてで」

 ボトンドさんと同じだ。ひょっとしてボトンドさんが七彩湯のことを広めてくれたのかな。それとも百合さん? ピーアさん? 誰にしてもすごくうれしい!

「日も落ちてきて不安だったんです。おじょうさんが通りがかってよかった」

「お役に立てて良かったです。どなたかのご紹介ですか?」

「いえ。このチラシを見ただけです」

 マントのフードをかぶっているせいで顔がよく見えないけれど、男の人は笑っているみたいだった。

「そうだったんですね。興味を持ってもらえてうれしいです。さあ行きましょう」

 わたしたちが並んで橋を渡り始めると、橋がキャーキャーと悲鳴のような音を立ててきしんだ。

 二人分の重さのせいかな。なんだか不気味な音。

「どんなお風呂屋さんなんですか?」

「それは見てからのお楽しみです」

「エーッ! 少しでいいから教えてくださいよ」

 男の人は小さい子どものように手をブンブンふった。

「それじゃあ少しだけ。すごく頼りになる店主さんがいるんです。お客さんにぴったりのお風呂を選んでくれるんですよ」

「へえ! そりゃあ良い。わたしは何色になるかな?」

「それから、お風呂屋さん自体はすごくきれいな青色をしてるんです。まるで海か空か湖が、そこにあるみたいなんですよ。きっとお客さんも気にいると思います」

「青色かあ。わたしは黒色が好きだからなあ」

「黒か……。あ、一つだけ黒色の銅像が屋根についてますよ。クロユリの形をしているんですけど、わたしはあのクロユリは七彩湯には合わないと思うんですよね。お客さんも不思議に思ってる人が多いみたいで。いっそうのこと、上から青くっちゃいたいくらいなんです」

 わたしがハケを動かす仕草をすると、フードの中にある男の人の黒い目がギラリと光った。その光は真っ暗闇の洞窟の中でランプを灯したようで、きれいというよりは、むしろ少しだけ怖かった。

 怒らせちゃったかな。

 わたしがだまって手をおろしたところで、橋が終わった。

 男の人はわたしの方をジッと見たまま黙っている。

「……あ、あの、わたし、お家に寄って来てもいいですか? すぐそこなんです」

「もちろん。ここで待ってるよ」

 これ以上怒らせたらいけない。

 そう自分に言い聞かせて、大急ぎでカギを開けて階段をかけ上って、部屋のドアを開ける。すると、茶々が「キュー!」と鳴きながらビュンッと飛びついてきた。

「わっ、茶々! ごめんね、遅くなって」

 茶々はわたしのワンピースにしがみついて「キュウキュウ!」と激しく鳴いた。やっぱりさみしかったんだ。

「本当にごめんね、茶々。もう二度とさみしい思いをさせないって約束する」

 わたしが小指を差し出すと、茶々はぷうっと鼻を鳴らしてから、小さな手をわたしの指にからめてきた。

「ありがとう、茶々。あ、そうだ。聞いて、茶々。あのね、外に七彩湯のお客さんを待たせてるんだけど、一緒に案内してくれる? ……ちょっとだけ、怖い人なんだ」

 茶々はもう一度ぷうっと鼻息を鳴らしてから、コクッとうなずいてくれた。わたしはもう一度お礼を言って、茶々のほほに自分のほほをすり寄せた。


「――お待たせしました!」

 折れた木の幹の上に座って本を読んでいた男の人は、「大丈夫だよ」と言って立ち上がった。すると茶々が「キュー!」と耳を刺すような金切り声を上げた。慌てて両腕でギュウッと茶々を抱きしめる。

「ご、ごめんなさい。どうしたの、茶々? 七彩湯のお客さんだよ」

「あんまりに背が高いから、クマだと勘違いして驚いたのかもね。よく小さい動物に怖がられるんだ」

 男の人はフードの中でニコッと笑った。

 よかった、もう怒ってないみたい。

「そうなんですね。でもダメだよ、茶々。大切なお客さんなんだから」

 茶々は腕の中で小刻みにふるえ、わたしの胸に顔を押し付けて丸くなった。こうなった茶々はもう石のように動かなくなる。雷がゴロゴロ鳴る夜も、こうしてわたしにしがみついて眠るから。

「茶々のことは気にしないでください。さあ、行きましょう。あと少しですよ」

「ようやくか。楽しみだなあ」

 わたしたちはまた並んで歩き出した。

 男の人の大きなクツの底が、枯れ枝をガリガリ、グシャグシャと踏みつぶす音が辺りに響き渡る。どうしてこんなに大きな音が鳴るんだろう。うまく言えないけれど、また不安な気持ちになった。

「えっと、待っていて、寒かったですよね。山の夕方は寒いから」

「ああ、少しね。その人魚の店主どのの選ぶ風呂で、早く温まりたいな」

「七彩湯のお風呂の温度はぬるめなので、二十分以上かけてゆっくり浸かると、体の芯から温まりますよ。それから、七彩湯はお花の良い香りがするので、心も元気にしてくれます」

「へえ。物知りだねえ」

「グローリアさんに教えてもらったんです。あ、グローリアさんっていうのは店主さんのことで……」

 その時、わたしはハッとして、口を開けたまま黙り込んだ。


 この人、今、「人魚の店主」って言っていた。

 でも、わたしはグローリアさんが人魚だって話していない。

 しかもこの人は、誰の紹介でもなく、チラシを見ただけで七彩湯へ来たと言っていた。チラシには当然グローリアさんが人魚だと書いていない。

 それだけじゃない。さっきこの人は、「わたしは何色になるかな」と言ってた。

 でもわたしは七彩湯のお風呂が七色の色で分かれていることを話してない。先に聞いてしまっていたら、あのドアがズラリと並ぶ光景を見た時の感動が薄れちゃうと思ったから。


 わたしはドクドクと大きな音を立てる心臓のあたりに茶々をギュッと抱きしめ、目だけで男の人を見上げた。相変わらず顔はよく見えない。

 この人は、グローリアさんの知り合い? それとも……。

「急に黙り込んでどうしたんだい?」

「いえっ、なんでもありません。あ、見えてきましたよ!」

 大げさすぎるくらい明るい声でそう言うと、男の人はパッとフードを外して顔を上げた。

 フードの中から出て来たのは、黒く縁どられた目がよく目立つ男の人だった。その黒色の目は、七彩湯の建物そのものよりも、屋根の上のクロユリを見ているような気がした。

「もう本当にすぐそこですね。これなら迷わずに行けそうだ。案内ありがとう、かわいいおじょうさん」

「えっ、最後まで案内しますよ」

「でももうずいぶん暗いし、それに……」

 男の人の言葉に続くように、「千花! 帰ってないの?」というおばあちゃんの声が聞こえて来た。楠さんの家から帰ってきたんだ。

「ほら、君の帰りを待っている人がいるみたいだよ」

「でも……」

 男の人と目が合った瞬間、急に目も体も動かせなくなった。腕の中の茶々も、本当に石のように固くなっている。

「帰るんだ。夜は子どもが出歩いて良い時間じゃない」

「……は、はい」

 何とか口を動かして答えると、男の人はわたしの肩を持って、くるっと家の方に体を動かした。

「さあ、帰りなさい。ここまでありがとう」

 トンッと背中を押されると、ようやく体が動くようになった。

 わたしはふり返らずに、怪しまれない速さで歩いて行った。枝にほほを擦られても、苔にすべって転びそうになっても、決して茶々を離さずに、無我夢中で歩いた。

そしてナナカマドの木の丸い形が見えると、一気に速さを上げて、木の下で腕を広げているおばあちゃんの胸に飛び込んだ。

「千花! どこ行ってたの、こんなに遅くまで!」

「ごめんなさい! わたし、わたし……」

 おばあちゃんの温もりに包まれると、不安だった気持ちが波のように押し寄せて来た。その波は涙に変わって、わたしのほほを流れていく。腕の中にいる茶々は、必死にその涙をぬぐってくれた。

「ひとまず中に入りましょう」

 わたしはおばあちゃんに肩を抱かれて、温かいお家の中に入った。

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