第17話 千花と緑色のお風呂
カラフルな町並みの中でぽっかりと穴が開いたような真っ黒い姿に、ビクッと体がふるえた。七彩湯のてっぺんについたクロユリが、目の前に現れたのかと思ったのだ。
でもよく見ると、男の子はちゃんと人間で、その手には七彩湯のチラシを持っていた。
「あの、ぼく、このお風呂屋さんに行きたくて……」
「……あ、ああ、ありがとうございます」少しドキドキしながら答える。「あ、でも、お金はある?」
男の子はいそいそとポケットを探って、緑色のさびが付いた硬貨を見せて来た。
「これで大丈夫?」
「うん。それじゃあ、案内するね。こっち」
茶々は男の子が気に入らないのか、わたしの胸に顔を押し付けて静かになった。
想像もしていなかったお客さんだ。小さい子はお風呂が好きじゃないと思ってた。
「お父さんやお母さんは一緒じゃないの?」
「二人ともお仕事で忙しいから、一人で行ってきなさいって」
「そっか。お風呂、好きなの?」
「うん。ゆったりできるから好きなんだ。お父さんと行ったら、そこに置いてあるチェスをやるんだ」
「ぼくが勝つことだってあるんだから」と言って、男の子はブンブンと腕をふった。
チェスが置いてあるなんて変わったお風呂屋さんだと思いながらも、「すごいね!」と言う。
「わたしも時々おばあちゃんとやるけど、チェスって全然勝てないんだ。何か勝つためのコツはある?」
「うーん、そうだなあ。あ、クイーンって駒があるでしょう」
「いろんなところに動ける強い
「そう。あれをうまく使うと良いんじゃないかな。あっちこっちに飛んで、どんどん敵の駒をつぶすんだ。でも敵もクイーンが強いってわかってるから、当然使って来るでしょう。クイーンは強い分、お互いにとって厄介なんだ。だから早く敵のクイーンっていうジャマ者をつぶす。そうやってぼくはいつも勝ってるよ」
そう話す男の子の目は真っ黒くて、なんだか少し怖かった。あのマントの男の人の目に似てるからかな。
ううん、目だけじゃない。真っ黒い格好もあの人に似てるんだ。
そう思ったとたんに、胸がザワザワとして落ち着かない気持ちになった。
「……そ、そうなんだ。ありがとう。次はそうやってみるね」
心を落ち着けるために、菫のお家のブドウ畑の方を見ながら山を登っていくと、やがて谷の上に伸びるつり橋にさしかかった。すると男の子は「エーッ!」と悲鳴のような声を上げた。
「ぼく、高いところきらい!」
「そ、そうなの? でも、この橋を渡らないと、お風呂屋さんには行けないのよ」
男の子はブンブン首を横にふって、わたしのワンピースをつかんできた。
「がんばって渡る。だから、手を繋いでくれない?」
「いいよ。ちょっと待ってね」
わたしは茶々に肩に乗るように頼んで、男の子と手を繋いだ。
茶々は何も言わなかったけれど、不機嫌だってことはわかった。ずっと耳の近くで歯をギリギリかみ合わせている音が聞こえるから。
二人で並んで渡っても、あの黒い目をした男の人の時ほど強く橋が揺れることはなかった。でも男の子は橋がギイギイと軋むたびに、わたしの手をギュッとにぎってきた。
橋を渡り終えると、男の子は長いため息をついた。
「がんばったね。さあ、あと少しだよ」
わたしはそう言いながら、そうっと男の子とつないでいる手を離した。
「こんなにがんばったあとなら、お風呂が一段と気持ちよく感じるんじゃない?」
「うわあ、そうかも! 楽しみだなあ!」
男の子は急に元気になって、飛び跳ねるように歩いた。
そして七彩湯に着くと、一層高く飛び跳ねて「すっごーい!」と叫んだ。その声に驚いた茶々が「キュー!」と鳴いた。
「あはは、何だよ、臆病だなあ」
「そっちだって散々橋を怖がってたじゃない」
親友の茶々を悪く言われてムッとしたわたしが言い返すと、男の子は生意気な顔でさらに言い返してきた。
「だって橋はいつの時代の誰が、どんな方法で作ったかわからないから怖いじゃない。ひょっとしたらぼくが渡った瞬間に壊れちゃうかもしれないんだよ? でもそいつは今、ぼくの声に驚いたんだよ。それって目の前の生きてる相手を自分よりも強いって感じて、負けそうだと思ったからでしょう。自分は負け犬だって言ってるようなもんだよ」
この話を聞いて、この子は何かがおかしいと思った。言っていることがいじわるすぎる。チェスの話だって、たかがゲームであんな乱暴な言葉を使うことない。
でも、腹が立ったからといって言い返したって、また何かを言い返されるだけ。
そう自分に言い聞かせながら、茶々を抱えてドアの方へ歩き出した。そして、ぶっきらぼうにドアを開けた。
「どうぞ、お入りくださいな」
「……おじゃましまあす」
男の子は少しきまり悪そうな顔で七彩湯に足を踏み入れた。
「あら、新しいお客さまね!」
こんなお客さんにも目を輝かせるグローリアさんにも腹が立った。
「お風呂に入りたいそうです」
「あなたぐらいのお客さまははじめてよ。どんなお風呂に入りたい?」
「うーん、そうだなあ」
男の子はテテッとグローリアさんの浴槽へ近づいた。そしてテーブルの上に置かれたクモの置物に気が付くと、大げさにびくっと震え上がった。
「あら、本物じゃないから大丈夫よ」
「う、うん。ぼく、クモ嫌いだから……」
グローリアさんは優しい笑顔を浮かべて男の子の頭をなでようと手を伸ばした。それに気が付いた男の子がちょっと頭を下げると、同時に「あっ!」と叫んだ。
「尾ひれだ! えっ、人魚ってこと! ぼく初めて見た!」
グローリアさんが尾ひれを動かして水しぶきを上げると、男の子は無邪気にキャアキャア声を上げて喜んだ。その声にもなんだかイライラしてしまった。
「ねえねえ、触っても良い?」
「いいわよ。優しくね」
男の子はいつもわたしが座っているイスをドンッと押しのけて、浴槽の中に手を入れた。ガタンッと音を立ててイスが倒れる。
「うわあ、ぬるぬるしてて気持ち悪い!」
ずっと笑顔だったグローリアさんの顔から、一気に表情が抜け落ちた。でも男の子はそんなことを気にせずに尾ひれを触っている。
「肌色と青色が繋がってるところの色も変だねえ。人間でも魚でもないんでしょう。変なの!」
「……そうね。中途半端よね」
グローリアさんは何とか答えているみたいだった。
なんて悪い子! 思いやりってものがまるでない!
お腹の中で怒りの火山が噴火しそうになるのをなんとかこらえながら、わたしは男の子の手を浴槽から出した。
「人のことをそんなにじろじろ見るものじゃないよ」
「人なの?」
わたしは歯を食いしばって、飛び出しそうになる怒鳴り声を押さえた。
「あなたはお風呂に入りに来たんじゃないの?」
わたしの怒りがようやく伝わったのか、男の子は「うん」と弱弱しく答えた。
「グローリアさん、早く選んでください」
「そ、そうね。それじゃあ、あなたには緑色のお風呂が良いと思うわ。新緑のように若々しいからね」
また何か余計なことを言う前に、わたしは男の子の手を引いて、緑色のドアの方へズンズン歩いて行った。
「さあ、どうぞ」
ドアを開けると、男の子はまた「うわあ」と声を上げて、リスのような速さでお風呂の中を走り回った。
わたしもいつものくせで、ぐるりとお風呂の中を見回した。
緑色をしたドングリ型の飾りがいくつもつり下がるお風呂の中で、一番目立っているのは、大きな砂時計だ。だいたいわたしの身長と同じくらいの大きさがあって、とてもじゃないけれど、男の子ではひっくり返せそうにない。わたしだって全部の力を使わなきゃならなそう。
「ねえ、この砂時計をひっくり返しておくから、砂が下に落ちるまでお風呂に入ってね」
男の子はわたしの方を見ずに、「はーい」と返事をした。
毛を逆立てて小さくなっている茶々を少し離れた場所に下ろすと、大木につかまるように両手を広げて、砂時計をつかんだ。
うわあ、すごく重たい!
自分も一緒に倒れるような勢いでグッと砂時計を押す。するとその拍子に、首から下げていたお守りの革ひもがブチッと切れてしまった。「あっ!」と思ったのもつかの間、ビンがツルツルしたタイルの床を転がっていくうちに、コルクのフタがはずれて、粉の入ったビンだけが、床に埋まっている浴槽の中に落ちていった。
「あーあ!」
わたしが声を上げると、さすがに男の子がこっちを見た。
「どうしたの?」
「……ううん。何でもない。倒しそうになっちゃって」
砂時計を支えながら適当に答えた。
お守りを落としたなんて言ったら、不注意だなんだって、またいやなことを言われるに決まってるもん。
それに、あのお守りには魔除けに効く薬草がたっぷり入っていたから、この子には良い薬かもしれない。何かに
自分にそう言い聞かせながら砂時計を立てると、縮こまっている茶々を抱きあげて出口へ向かった。
「わたしは外にいるから、何かあったら呼んでね」
「あ、ちょっと待って」
男の子は急に甘えたような顔になって、わたしの上着のすそをつかんで上目遣いをしてきた。
「ねえ、ドアの前にいてくれない? ぼく、お風呂でおぼれたことがあるから、もしおぼれちゃったら助けてほしいんだ」
だったら一人で来なければいいのに。
そう思いながらも、わたしは「はいはい」と答えた。
男の子は「ありがとう」と言うと、わたしが出ていく前に、もう服を脱ぎ始めた。わたしは慌ててドアの外に出て、その場に座りこんだ。
グローリアさんの方を見ると、後ろ姿でもわかるくらい落ち込んでいた。ピクリとも動かずに天井の草原を見上げている。
「……グローリアさん、あの砂時計ってどのくらいですか?」
「……えっ、ああ、三十分くらいよ」
我に返ったグローリアさんは、力なく笑って答えた。
「……わたしはグローリアさんの青色の尾ひれも、グローリアさんも大好きだよ」
ずっと静かだった茶々も「キュウ」と鳴いて、グローリアさんの浴槽に滑り込んだ。グローリアさんは茶々を抱きあげ、ほほにすり寄せた。
「……二人とも、ありがとう。すごくうれしいわ」
その時、わたしの後ろのドアの中から、糸巻きを高速で巻いたような耳障りな悲鳴が七彩湯に響き渡った。ひょっとしておぼれてる?
わたしは急いで振り返って、ドアを勢いよく開けた。
「大丈夫?」
わたしはドアノブをつかんだまま、その場に立ち尽くしてしまった。
緑色のお風呂の中には、びしょ濡れの黒いマントと、シュウシュウ音を立てる
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