第3話 千花は茶々と秘密を持つ

 紙の束を胸に抱えてお家に帰ると、おばあちゃんはもう畑にも庭にもいなかった。

 そうっとドアを開けて「ただいま」と言うと、キッチンの方から「おかえり」と返事が返ってきた。わたしは背中にチラシを隠しながら、顔だけをキッチンに入れた。

「夕食づくりしてるの? 手伝おうか?」

 おばあちゃんはパプリカパウダーをお鍋にまぶしながら、「大丈夫よ」と答えた。

「今日は具だくさんのパプリカスープにするから、あとは煮込むだけよ。部屋で休んでなさい」

「はーい」

 後ろ歩きをしてゆっくりとキッチンから離れると、大急ぎで階段を上って、二階にある自分の部屋に飛び込んだ。そしてしっかりとドアを閉めてから、ベッドの下に七彩湯のチラシを押し込んだ。

「ふう。これで良しと」

 部屋の中がシンッと静まり返ると、急に心配事が沸き上がってきた。

「……ねえ、茶々。今更だけど、相談もせずにお風呂屋さんのお手伝いを始めたって言ったら、おばあちゃん怒るかな?」

 茶々は小さな手で小さな頭を抱えて「キュウ」と鳴いた。


 おばあちゃんはいつも、耳にたこができるくらい「もっと遊びなさい」とわたしに言う。

 友達のほとんどがそんなことを言われたことはなくて、「もっと手伝いなさい」とか、「もっと勉強しなさい」とか言われるらしい。でもおばあちゃんからは一度も言われたことがない。

 むしろ今日みたいに、わたしがいつまでも家の手伝いをしていたり、勉強をしたりしていると、まるで魔法みたいに軽々と体を持ち上げられて、外へ出されてしまう。

『千花はもっと遊びなさい。子どもは遊ぶのが仕事よ』

 これがおばあちゃんの口ぐせだ。


「ナイショの方が良いよね。わたしがどんなに七彩湯の宣伝係を楽しんでやるとしても、それは遊びじゃないって言って、止められるに決まってるもん。そしたら、またグローリアさんが困っちゃう。そんなのかわいそう」

 わたしは茶々の顔の高さまでかがんで、小指を差し出した。

「わたしと茶々だけの秘密だよ。守れる?」

 茶々は「キュー!」と元気よく鳴いて、わたしの指に小さな手をからめてきた。

「それじゃあ明日からさっそく始めよう。学校が終わったらすぐに帰ってくるから、そしたら茶々も一緒に町へ行こう。二人で七彩湯を宣伝しよう!」

 急にハッとした茶々は、両手を広げて糸を引くような仕草をした。

「ああ、つり橋のことね。ふふふ、茶々が一緒ならきっと怖くないよ」

 茶々は胸を張って「キュキュキュキュッ!」と鳴いた。「任せて」って言ったのかな?

「ありがとう、茶々。すごく頼もしい!」

 わたしは茶々の細長い体をギュウッと抱きしめた。


 次の日、学校が終わると、友達はすぐにお家へ帰ってしまった。虹光町こうこうまちはワインが有名で、ほとんどの家がワイン造りに関わっている。ブドウの収穫時期である今は、町中のみんなが、子どもですらも、すごく忙しい。授業の後に教室に残って、ちょっとおしゃべりをする時間もないんだ。

 いつもならつまらない日だな、と思うけれど、今日のわたしはちがう。

 カバンをブンブンふりながら、グラグラ揺れる橋を渡って、お家へ走って帰った。橋がギイギイときしむ音だって、今のわたしには楽しい音楽に聞こえる! だって、わたしには楽しい宣伝のお仕事があるんだもん!

「ただいまあ」

 家の中から返事は聞こえてこない。どうやらおばあちゃんは留守にしているみたい。

 わたしはニッと笑って部屋へかけこみ、ベッドの上でお利口に待っていた茶々を抱き上げた。

「おまたせ、茶々! さあ行こう」

 パーカーのポケットに入るだけのチラシを無理やり入れると、もう一度グラグラ揺れる吊り橋を渡って町へ向かった。

 あんまり慌てていたものだから、山の中にチラシを落としていることに、この時は気づかなかった。


「目抜き通りの方なら人がいるよね。ひとまずそっちに行こうか」

 首巻きのようにわたしの首にまかっている茶々は、元気よく「キュウッ!」と鳴いた。

 ブドウ畑が広がる虹光山こうこうやま虹橋川にじはしがわに挟まれた町の目抜き通りには、想像通りたくさんの人がいた。買い物かごを持つ人、収穫したてのブドウを醸造所じょうぞうじょに運ぶ人、お使いに走る子ども……。誰もが忙しそうに道を歩いていて、とてもじゃないけれど声をかけられそうにない。

「一人一人に渡すのは難しそう。よおし、それなら……」

 チラシを一枚手に取ると、空に向かってピッと手を伸ばした。スウッと深呼吸を一つ。

「新しいお風呂屋さん『七彩湯』でーす! みなさんどうぞおこしくださーい!」

 わたしの大声が通りを走り抜けていくと、みんなが一瞬こっちの方を見た。でも、すぐにまた買い物や仕事に戻ってしまった。すると茶々は「キュウキュウ!」と金切り声を上げた。

「まあまあ、茶々。最初からうまくいくはずないよ。もう一度やろう!」

 わたしはチラシを両手に持って、頭の上でヒラヒラさせながら歩きだした。

「七彩湯でーす! とってもきれいなお風呂屋さんでーす! 入れば元気になることまちがいなし!」

 グローリアさんからそう聞いたわけじゃないけれど、きっとそうに決まってる!

でもどれだけ声を張り上げても、誰も興味を持ってくれなかった。


 西に傾いた太陽が目抜き通りをオレンジ色に染める頃になっても、ポケットの中のチラシは、一枚も減っていなかった。

「あーあ。どうしよう。このままじゃグローリアさんが悲しむよ」

 茶々はわたしのほほに柔らかい頭をすり寄せて来た。

「なぐさめてくれてありがとう、茶々。暗くなってきたし、ひとまず今日は帰ろうか」

 落ち込んでいる上に、木々が長い影を落とす暗い山の中で、グラグラ揺れる橋を渡るのは、いつもの何倍も怖かった。どこがギシギシ鳴っているのかも、自分がどの辺りまで来たのかもよくわからない。真っ暗闇の谷からは、ヒューッと風の通る音が絶え間なく聞こえてくる。

 わたしは茶々をギュッと抱きしめて、震える足を何とか動かした。


 ようやく橋を渡りきって、もうじきお家が見えてくると思った時、七彩湯のチラシを持った背の低い人が立っているのが見えた。

「わたしったら、チラシ落としてたんだ」

 近づいていくと、その人はわたしとほとんど背が変わらなかった。

「あのおう、七彩湯に行きたいんですか?」

 声をかけると、三角帽子をかぶったその人は、亀のこうらみたいに大きなリュックサックを背負った肩をびくっとふるわせてふり返った。

 その人のしわしわした顔の中心には、帽子に負けないくらいきれいな三角形をした鼻がついていた。すごく立派な鼻! まるで物語の中のドワーフみたい。

「あ、は、はい。ここに落ちていたチラシを見て」

「えっ! 本当ですか! やったー!」

 とうとうお客さんに出会えた! 

 さっきまで胸の中にあった重い石のような悲しい気持ちは、霧が晴れるようにあっという間に消え去っていった。

 わたしは自分の鼻とお客さんの鼻がくっついてしまうくらいズイッと顔を近づけた。

「わたし、そこでお手伝いをしているんです。よかったらご案内しましょうか?」

「いいんですか? ぜひお願いします。この辺りに来たのは初めてで」

「もちろんです。こっちですよ」

 わたしと茶々はこっそり目を合わせてほほえみあった。

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