第13話 千花は五年ぶりに父親と再会する

 明日は祝日で学校はお休みだ。だから七彩湯から帰って、夕食を食べて、お風呂から出たわたしは、茶々と少しだけ夜更かしをした。一緒に床に寝転んで、本を読んだり、ボールで遊んだり。眠りについたのは、夜の十二時を過ぎるちょっと前だった。

おかげで次の日は寝過ごしてしまって、目が覚めたのは、朝の十時頃だった。


「うーん。夜更かしって楽しいけど、やっぱり眠いなあ」

 閉じそうなまぶたをこすりながらベッドの上でぼーっとしていると、ドンドンドンと大きな音が聞こえて来た。

「晴乃母さん、いないのか?」

 男の人の声だ。わたしはまだ眠っている茶々を起こさないようにベッドから出て、急いで着替えると、階段をかけ下りた。

 すでにきちんと着替えてエプロンをつけているおばあちゃんは玄関に立っていた。おばあちゃんはニコッとほほえんで、わたしを胸に抱き寄せた。

「……おばあちゃんのこと、母さんって呼んでるね」

「ええ。つまりあなたのお父さん、草介よ」

「えっ!」

 ドアの向こう側にいる人は、もう一度ドンドンドンとドアを叩いた。

「早く開けてくれないか。くたびれているんだよ」

「はいはい、今開けますよ」

 おばあちゃんはわたしを後ろに立たせて、ゆっくりとドアを開けた。

「あなたが五年も帰ってないってことは、わたしは五年分年を取ってるんだから、そんなに急かさないでほしいものね」

「悪かったよ。でも一刻も早く座りたかったんだ」

 大きな革のカバンを抱えた男の人がドカドカと家の中に入ってくると、ツンとする匂いがしてきた。

 うわあ、いやな匂い!

 わたしは思わず鼻を両手で押さえた。


 わたしのお父さんだという人は、いつもわたしとおばあちゃんが並んで座るリビングルームのソファにドサッと座り込み、長い長いため息をついた。わたしはおばあちゃんの後にまとわりついて歩いて、チラチラとお父さんの方を見た。

 油を塗ったようなテラテラした髪に、紙のようにピシッとしたシャツとズボンを着て、太い眉毛の真ん中には濃いしわがついている。それから、体中からツンとする匂いがした。

 ずっと見ていると、そわそわしてきて落ち着かない気持ちになった。

「突然帰って来てどうしたの?」とおばあちゃん。

「昨日まで京都にいたから、東京に戻る前にちょっと寄ったんだ。久しぶりに二人の顔を見ておこうと思って」

「桜さんは一緒じゃないのね」

「桜は病院に残ってるんだ」

 めんどうくさそうに答えたお父さんは、何かを探すようにきょろきょろと部屋の中を見回した。そしてお茶を運ぶおばあちゃんの後ろのわたしに気がつくと、少しだけ笑った。

「ひょっとして千花かい?」

「そうよ。あなたの一人娘」

 おばあちゃんはテーブルにお茶を置きながらそっけなく答えた。

「こっちにおいで、千花」

 わたしはドキドキしながらおばあちゃんの後ろから離れて、じりじりとお父さんの方に歩いて行った。お父さんはソファの端に寄って、隣に座るように言ってくれた。

「大きくなったな、千花」

「……うん。今、クラスで二番目に背が高いんだ」

 わたしはヒゲがうっすらと生えた、お父さんのあごの辺りを見ながら答えた。

「そりゃあ良い。桜も背が高いから、きっと桜似の美人になるな」

 そう言ってわたしの頭をなでるお父さんの手は、やっぱりツンとする匂いがする。

 そっか、病院の匂いに似てるんだ、お父さんはお医者さんだから。

 かすかに残っている記憶の中のお父さんは、こんな匂いがしなかった気がする。だからかな、この人が本当にわたしのお父さんなのかわからなかった。

「それで、いつまで居られるの? 泊まるなら部屋の支度をしなきゃ」とおばあちゃん。

「いや、じきに帰るよ。明日の仕事には間に合わなきゃならないからな」

「あら、ゆっくりして行けばいいのに。千花と積もる話もあるでしょうに」

 いつも優しいおばあちゃんは少し怒っているみたい。話し方がずっとプリプリしている。

 そんなおばあちゃんに、お父さんはムッとした顔をした。

「……まあ、そうだな。それじゃあ千花、なにか話してくれないか。桜からも千花の様子をしっかりと見て来るように言われてるんだ」

 何か話して、だなんて急に言われると、頭が真っ白になってしまう。

「えっと……」

 その時、リビングルームの入り口から「キュー?」と茶々の寝ぼけた鳴き声が聞こえて来た。

 そうだ、茶々のことを話せばいいんだ!

 わたしはまだ眠たそうな茶々を抱きあげて、お父さんに見せた。

「この子はわたしの親友の茶々だよ。カワウソなの。すごくかわいいでしょ」

「へえ、珍しい友達だな。よろしく、茶々」

 お父さんはニコッとして、それ以上は何も言わなかった。茶々の方もお父さんの匂いが気になるのか、顔をできるだけわたしの方に向けている。二人は相性が悪かったみたい。

 でも茶々の話ができないとなると、あとは何の話をすればいいんだろう。お父さんに話して、お母さんがあとから聞いても楽しい話……。

 そうだ、七彩湯だ! 近頃のわたしは、グローリアさんのいる七彩湯のおかげで、すごく楽しいじゃない!

「あのね、わたし、ここから少し歩いたところにあるお風呂屋さんで、お手伝いをしてるんだ!」

「風呂屋がこんなところに? 変な所じゃないだろうな」

 お父さんにじろっとにらまれたおばあちゃんは「あいさつには行ったわ」と答えた。

「世界で一番のお風呂屋さんだよ。そうだ、これから一緒に行かない? 少し入るだけで、疲れが取れると思うんだけど」

「良い考えね。行ってらっしゃいな、草介。あなた、カッカしてるし、顔色が良くないもの。帰って来るまでには何か食べるものを作っておくから。今日くらい千花の相手をしてあげなさい」

 そう言うと、おばあちゃんは魔法のような力でお父さんを軽々と立たせ、背中を押して玄関の外に押し出した。わたしも茶々を抱いたまま慌てて追いかけた。

「最低でも三十分後に帰ってきてちょうだい」

 バタンッと音を立ててドアが閉まると、お父さんは「やれやれ」と肩をすくめた。

「それじゃあ千花、その風呂屋とやらに連れて行ってくれるか?」

「うん。こっちだよ」

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