第12話 少しまずい状況
男はそう言いましたが。
この男も様子が変です。
「来い。そうでないとこの女を殺すそうでないとこの女を殺すそうでないとこの女を殺す来い来い来い来い」
同じことを何度も繰り返し、そのたびに黒目と白目が反転します。時折不器用に首が右に折れたり左に折れたりし、その際に黒い霧のようなものが襟首から湧き出して見えました。
そうかと思うと。
ふ、と苦しそうに顔をゆがめて「妻を助けて」とうめきました。
「ああ。魔物が中に入り込んでいるのですね。この男性はご夫君ですか?」
私が言いますと、女性は嗚咽を漏らしました。
「市場に買い物に来たら急に……!」
顔を覆って泣き出す女性を私は急いでなだめました。
周囲に視線を走らせます。いまのところこの異変に気付く買い物客や商店主はいないようです。
誰も、魔物の存在や、このご夫婦に気づいていません。
騒ぎになって二次災害が起こっては厄介です。ここは静かにことを治めねばなりません。
「大丈夫です。身体から魔物が抜ければいつものご夫君に戻りますからね」
「本当に⁉ 本当ですか!」
女性が金切り声を上げました。私は安心させるようにうなずきながら、ひやひやいたしましたが……。
全然別方向から大きな声や笑い声が聞こえてきて視線だけ移動させます。
チュロス屋でした。
殿下……アイトが女性に囲まれ、なにか大騒ぎになっています。
ほっとしました。
人の視線はみな、アイトとそれを取り囲む女性客に向けられています。
そうです。
この魔物をアイトに近づけるのも避けねばなりません。危険です。
「この男から抜けてほしければ」
粘着質な声に顔を向けますと、男の目からはとめどなく黒い液体が流れだしていました。身体も不自然な、けいれんのような動きをしています。もう魔物をいれておくには限界なのかもしれません。
「お前の肉をくれ。死にかけの聖女の肉を食えば、最強になると聞いた」
「あなたもですか」
あきれてしまいます。いったい誰がそのような噂を流しているというのか。
「場所を移しましょう。あなたの指示するところに参りますから、その男性から抜けてください」
「いやだね。そのすきに逃げるんだろう」
「私は構いませんが、どちらにしろその身体はもちませんよ? 困るのはあなたでは?」
そう指摘してやりますと、小さな舌打ちを漏らしました。
いきなり男性が膝から地面に崩れます。女性が悲鳴を上げてその身体に取りすがりました。
ほっとしたのもつかの間です。
ぴしゃり、と。
私の右腕になにやら水気を帯びた、それでいてしっかりとした手ごたえのあるものが巻き付きました。
「……縄?」
つぶやきが漏れます。
半透明な、白濁した縄状のものが私の右手首に絡まっています。
「あんた! ちょっと、目を覚まして! 大丈夫⁉」
女性が男性を揺さぶりながら泣き叫びます。
もう大丈夫ですよ、と言おうとした矢先。
私は猛烈な勢いで引っ張られました。
まるで右手首から宙に飛んだような状態で路地裏に引きずり込まれます。
姿勢などもはや制御不能でした。
右肩を下に強引に引きずられ、路地裏の湿気た土が右頬をこすり、熱感に似た痛みに反射的に立ち上がりました。
路地裏の両脇には古びてはいますが背の高い建物があるせいで、昼だというのに薄暗いです。
奥にいくほどしりすぼみに狭くなる小道で、私の目の前に対峙しておりますのは……。
「うひゃあ……」
思わずうめいてしまいます……。
蜘蛛……でした。
蜘蛛の魔物です。
長く細い足が八本あり、それがくの字型に折れ曲がって太い腹を支えています。
全体はふかふかとした毛のようなもので覆われ、頭部とおぼしきところから短い二本の牙が生え、そこから白濁したロープというか、糸を吐きだしていました。どうやらそれが私の腕に絡まっているものの正体のようです。
いえ、それよりなにより、頭部をぐるりと一周する形で目が……目がたくさんあります!!!! それがなんともいえません!!!!!
「死にかけの聖女よ。お前の肉をくれ」
「ごめんなさい。あなたには無理です」
蜘蛛の提案を即座に却下してしまいました。
無理……ごめんなさい、無理。蜘蛛、嫌いなんです……。
私は素早く左人差し指で
ふわり、と星のきらめきに似た光を放ちながら光輪は私の前に浮かびます。
そう。
浮かぶのは確認したのですが。
ぐらりと視界が揺れました。
一瞬、また蜘蛛の糸を引っ張られて態勢を崩したのかと思いましたが、違います。
立ち眩みを起こしたようでした。
「本当に、死にかけの聖女なんだな」
蜘蛛が笑ったようです。
ぎちぎちと牙が揺れ、それに合わせて右手首に絡まった蜘蛛の糸が揺れます。
少し、まずい状況です。
息が切れ始めました。冷汗も止まりません。
やはり病み上がりに1時間近くも歩くものではないようです。自覚はありませんでしたがだいぶん体力が消耗していたようです。
「死にかけですが、まだ死んでいませんよ」
ありがたいことに、光輪の効力は弱まっていません。
私は左手で蜘蛛へと光輪を押し込みます。
光輪は拡大し、蜘蛛を包んだのですが……。
それより先に蜘蛛は、私の右手に絡ませた糸を引き寄せました。
地面を一気に引きずられ、どん、と。
どん……いえ、正確には、どん・ふわっという感じで私はなにかに衝突し……。
おそるおそるふわふわしたものに顔の半分をうずめて視線を上げると……。
蜘蛛の目のひとつと、視線が合いました。
「いやあああああああああ!!!!!!!」
自分史上最高の悲鳴を上げながらもがきます!
く、くくくくく蜘蛛!!!! 蜘蛛に抱き着いてしまっています!!!!
しかし逃げようにも、右手につながれた糸を短くされてしまっているので距離がとれません!
地獄! まさに地獄です! こんなゼロ距離で大嫌いなものを見せられるとは!
「痛いっ!」
鋭い痛みに我に返ります。
右手を蜘蛛が噛んだようで、小指の付け根から血が噴き出しました。いけません、とにかくこの距離をどうにかしなくては。
私は光輪を呼び戻し、立てた左手薬指にひっかけてくるくると回します。
勢いをつけて蜘蛛と私をつなげる糸へとたたきつけました。
ブツッと意外に野太い音を立て糸が断ち切れます。
ほっとした途端、身体が後ろに倒れていきました。あ、まずい。そう感じた刹那。
「テオドア!」
背後でアイトの声がしました。
仰向けに背中から倒れた私の真上を。
アイトが飛び込んでいくのが見えます。
直後。
どぉおおおん、と。
おなかに響くほどの轟音が上がり、焦げた臭いと水気を帯びたものがはじけ飛ぶ嫌な音が響いて……。
私は意識を失いました。
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