第3話 変態!!!

◇◇◇◇


 目を覚ました時、ベッドの側には椅子に座ったイーリアス殿下がいらっしゃいました。


 ゴリゴリとなにか音がしていると思えば、イーリアス殿下が乳鉢を太ももの間に挟み、すりこぎでなにやらつぶしておられます。


 さすが「天使も恥じらう」と言われる殿下です。乳鉢を扱っていてもそのお姿は非常に尊いのですが。


 違和感は半端ありません。

 なんでしょう、これ。しかもすりこぎを扱う手が玄人のそれです。イーリアス殿下ほどになればかようなこともやはりスマートに行えるのでしょうか。


 私はもぞりとベッドから上半身を起こし、周囲を見回しました。

 ちょっとクラクラしますが、どうやらここは私の実家。私の自室のようです。


「あ。起きた?」


 ゴリゴリと鳴っていたすりこぎの音が止み、イーリアス殿下が笑顔で私に尋ねられました。


 ……おかしい。


 もうやっぱりおかしいとしか言えません。

 なぜ殿下は私に対してこんな人懐っこい笑みを向けるのでしょう。


 いつもならゴミムシを見るような眼を向けてくるというのに。

 混乱しすぎているのか、ああ、やっぱりめまいがしてきます……。


「大丈夫か? 無理するな。半日以上眠ってたからな」

「は? え?」


 ゆがむように、ゆっくりと回転するように動く視界から見えるのは窓。

 レースのカーテンから差し込む光は、私が倒れたときと同じに見えます。


 ですがどうやら“次の日の朝”ということなのでしょう。

 イーリアス殿下は立ち上がり、イスに乳鉢を置いて私に近づいてきました。


「急に上半身を起こすと脳に血が回らなくなるんだ。ジャッキアップって割と大切なんだよなぁ」


 言いながら、殿下はクッションや枕を私の背中に差し込みました。「もたれて」。そう促され、私は抗うこともできずに、くたりとクッションの中に背中を預けました。


 ほっと吐息がもれたのは。

 殿下がおっしゃる通り、めまいが収まってきたからです。


「痛いところはない? 頭痛とか、おなかとか」

 さらに尋ねられ、私は首を横に振ります。


「そう。よかった」


 殿下はにこりと笑ったあと、いきなりばさりとキルトケットをシーツごとまくり上げたので、私はうっかり悲鳴をあげかけるところでした。


 殿下は私の足首を触ったり動かしたりしながら、何度かうなずいておられますが……。


 私はびっくりしすぎて金縛りにあったようです。

 それからまた丁寧にキルトケットを戻してくださいました。


「この前みたいなむくみはないな。よかった。よし、水を飲むぞ」


 殿下はテキパキと動き、テーブルの上にあった水差しからゴブレットに液体を注がれました。大変恐縮です。


 こちらに戻ってこられるころにはようやく私の金縛りもとけました。


「あの、ここ……実家ですよね?」

「あ? うん。テオドアの実家。はい、これ飲んで。昨日からなんにも口にしてないんだし」


「でしたら家中の者に……。これ以上殿下のお手を煩わせることは」

 言いながらも頭の中は大混乱です。


 殿下は、実は殿下ではないのではないでしょうか。

 姿かたちは全く同じですがこれは別人レベルの変わりようです。


「いま、忙しいみたいだよ。ほら、今日のお昼にはサザーランドに向けて出発しなきゃだしさ」


 私は殿下からゴブレットを受け取りながらも「あ!」と声を上げてしまいました。


 そうです。私は聖女の任を解かれてサザーランド領へと異動が決まったのです。

 驚きすぎたのか、手元がお留守になり、ゴブレットを取り落としかけました。


 あぶない、と思った時には、私の手ごと殿下がゴブレットを握り締めてくださり、事なきを得ました。


 ほっとしたのもつかの間です。


「やっぱりむくみが少し残ってるのかな。動かしにくいか?」


 しっかりと私の手を包み込んだまま、殿下は顔を寄せてこられます。ふわ、と殿下の髪が揺れて不思議な香りがしましたが……。


 そんなことよりもなによりも。

 殿下に手を握られています! 私が……っ! この私が!!!!


「ちょ……なに、震えてない?」

「いえ……あの、殿下……っ」


「けいれんじゃねぇよな? え? 寒い? 経口補水液、室温にしてるんだけど……。あっためるか?」

「いえ! あの!」


「この前までむくみが気になってたんだけど……。えー……。これ大丈夫だと思うんだけど、誰かドクターいねぇのかよ。クソ師長でもいいから来てほしいな。あ! ちょ……。まさか脱水からのけいれいじゃねぇよな。トイレ行く? 行って一回おしっこの色を見て教えて」


 おしっこの色!!!!!!

 教えて!?!?!?!?!?


「立てるか? ちょっとこっちに身体を……」

 殿下はゴブレットを私から取り上げ、背中に手をまわしてきます。


「トイレ行こう。おしっこの色確認」

「おしっこの色って! 変態!!!!」


 どん、と殿下を突き飛ばしました。


 その拍子に私はまたバタンとクッションの中にうずもれました。急に暴れたり大声を出したからでしょう。もう目がちかちかします。失神寸前のように光が舞っていて、耳鳴りと頭痛が始まりました。


「は? 変態? なんで!」

「だ、だだだだだだだだって!」 


 急速に顔が熱くあり、喉の奥になにかがからんでケホリと咳が出ました。


「殿下が変なことを……っ!」


 語尾はせき込んだために潰えてしまいます。殿下はいったんゴブレットを近くのテーブルに置いて、私に両手を伸ばしました。


 あっさりと私は横向きに転がされます。殿下は私の背を撫でたり、ときどき軽くたたいてくれるので、咳がスムーズに喉から出ました。


「あー……。おしっこの色」


 殿下が急につぶやきますから、死にたくなります。なんで何度もかようなことをおっしゃるのでしょうか!


「脱水の指数なんだよ。人間の身体って半分以上が水でできててさ。その水が失われたら簡単に機能停止しちゃうんだ」


 ようやく咳が止まりますと、殿下はまた軽々と私の身体を転がしてあおむけにしてくださいます。


「で、身体から水が足りなくなっているひとつの目安がおしっこの色でさ。普通は薄い黄色だけど、茶色に近くなればなるほど身体に水が足りない証拠だから、もっと経口補水液を飲まさなきゃなぁと思っただけで」


 殿下は口をへの字に曲げ、困ったように私を見下ろされました。


「別にテオドアのおしっこを興味本位で見たいと思ったわけでは……」

「だから何度もかようなことをおっしゃらないで!」


 耳をふさいで私が叫びますと、殿下は一瞬きょとんとしたお顔をなさって。


 そのあと、お腹を抱えて大爆笑されました。


 今度は私がきょとんとする番です。

 殿下のこのような表情やしぐさを見たのは初めてでした。


 婚約は形式上のものでした。

 心は通わず、殿下の瞳はいつも花のような、蝶のような乙女たちを見つめておられました。


 私になどついぞ向けられたことがない碧玉の瞳。

 それが愉快そうな色をたたえ、私に向いたまま楽しそうに笑い声を立てておられます。

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