第19話 勇者の転移召喚
その日の晩のことです。
お風呂をいただき、行儀の悪いことですが頭からすっぽりとタオルをかぶったまま私は廊下を歩き、居間へと行きました。
「あ。ノックもせずにすみません」
驚いたことに居間にはアイトがいました。
教会に住み始めてからというもの、アイトはいったいいつ眠っているのだろうと思うほど、動き回っておられます。
補修をしたり、壊れたポーチに手を加えたり。陽が落ちて、夕飯を食べ終わっても自室に行ってランプの燈心を直したり、食器保管室で食器の選別をしたりしておられたものですから……。
てっきり居間にはいないと思っていたのです。
「こっちこそ。邪魔だった? いまからここで作業する?」
アイトは床に広げたラグの上に直接座り、金属製のなにかを磨いていました。
彼がちらりと視線だけ動かしますのでそれを追いました。アイトが見ているのはテーブルの上においた聖典のようです。
「もうすぐ星まつりの時期ですから。その準備と……聖典を見直そうと思っていたのです」
私は頭からタオルを外し、おずおずと居間に入ります。
「自室でいたしますね」
「別に俺はかまわないけど。居間のほうが明るいだろうから、ここですれば?」
アイトは手袋をはめ、クロスで金属を磨きながらそう申し出てくれました。
確かに。
私が居間で作業しようと思ったひとつは、この明るさです。
アイトは魔法核で火を扱えるせいでしょうか。居間に設置されているランプたちは本当に持続的に明るいのです。まるで真昼のようで、文字を読んだり書いたりするには最適な環境なのです。
「それでは……お邪魔にならないように」
私は断りをいれ、椅子に腰かけてテーブルの上に置いた聖典とメモ帳を取り上げます。
重要な部分に紙片を差し入れ、そこに必要なことを書きこんでいくつもりでした。
しばらくの間、ふたりとも無言でした。
私は聖典に没入しておりましたし、アイトも無言で金属を磨いておられます。時折、きゅっと高い音がしましたが、それもまったく気になりませんでした。
私のほうの作業がひと段落したとき。
ふと息を漏らして顔を上げると。
こと、と硬質なものを床に置く音がしました。
視線を向けますと。
道具を床に置いたアイトが両腕を天井につき上げるようにして伸びをしているところでした。
目が合います。
「一緒に終わったな」
屈託ない笑顔を私に向けてそういいました。
その笑顔を見たら。
なんだかとても。
とても心が穏やかになって。
それでいて炭酸水を飲んだ時のようにさわさわします。くすぐったくなると申しましょうか。
一瞬で心が沸き立ちながら、でもとても安心するのです。
「そうですね。あの、アイト。それはいったい?」
私は興味のおもむくままに尋ねます。アイトはいったい何をそんなに磨いていたのでしょうか。
「ああ、これ馬鍬の部品。すっごい錆びてたから」
「馬鍬? 畑を耕すのですか?」
馬や牛にベルトをつなぎ、後部に鍬をつないで畑を耕させるのです。
「いや、倉庫を探ってたら出てきたからさ。村の人で誰か使う人がいるんなら貸し出そうと思って。人力よりだいぶん楽だろう?」
アイトは手袋を外しながら言います。
それはそうです。なにより岩や大きめの石を取り出すには、大型家畜は非常に役に立ちます。
「きっとみんな喜ぶと思います」
こぶしを握ってぶんぶんと首を縦に振ると、アイトが笑いました。
「だといいけど。あ、俺、お茶を飲むけど一緒にいる?」
「よろしいですか? あ。私が淹れますけど!」
ぴょこんと椅子から立ち上がりましたが、その拍子に膝の上に乗せていた聖典が落ちてしまいました。
いけません! せっかく紙片をはさんだのに……ああ! お、落ちて……っ。
「いいよ。手を洗いたいから。お茶を淹れてくるまで時間かかるかもだから、それ、ゆっくりすれば」
アイトは床に舞った紙片を指さし、ちょっとだけ気の毒そうな顔をしています。うう、私は役立たずです……。自分のことさえまともにできません。
自己嫌悪に陥りながらも紙片を集め、聖典を開いて必要個所のところに挟みなおしたころには、アイトがお盆にカップをふたつ乗せて戻ってきました。
「お茶菓子持ってきたほうがよかった?」
尋ねられましたから首を横に振ります。さっき夕ご飯をいただいたところですし、いつもアイトに『もう少し食べて』と注意されるのでこのところはいつも満腹です。
「まだ時間ある? 俺、少し話してもいい?」
テーブルの上を片付けると、アイトがお盆を乗せてそんなことを尋ねます。
「もちろんです。あ、えーっと。ソファに移動しますか?」
椅子もあるのですが、アイトがこちらに持ってこないといけないので私はそう提案しました。
アイトはうなずき、それぞれ自分のマグカップを持ってソファに座ります。
「今日、王太子の使いが来ただろう?」
隣からアイトの低い声が流れてきました。
私はうなずき、唇にマグカップを寄せます。ふわりと香気がのぼり、私の鼻先をくすぐって消えました。口に含むと、ほどよい温度の液体が喉から体内へと流れ落ちていくのがわかります。
「予定より早くなりそうだけど……またテオドアには王都に戻って聖女の役割をしてもらわないといけないかもしれない」
「私が……ですか?」
アイトの言葉に驚きます。
「セシリア嬢が正式に聖女となられました。この先、私の出番が来るとは思いませんが」
「勇者の転移・召喚がうまくいくとは俺には思えない」
首を横に振ると、アイトの髪がふわりと揺れます。それは金粉をまいたような残像を宙に漂わせ、私は場違いにも見とれてしまいました。
「実際、いままで成功したことがないと聞いている」
「え?」
思わず聞き返してしまいました。
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