第29話 葉と花

「俺が言うなって話だけど、頼むからあまねを真ん中に置いて考えてやって欲しい。いっぱい話をしてやって欲しいんだ。笑ってるからって流すのは止めて、向き合ってくれよ。あいつが色々諦めてしまう前にさ」


 頭を下げる俺の様子を見て、姉は急に弱弱しい顔になる。


「そんなこと、分かってる」

「じゃあ」

「私もようちゃんみたいな才能が欲しかったなぁ。そしたら、周くんともうまく距離を縮められただろうし、今頃学校にもちゃんと休まずに通ってたのかもしれないじゃない」


 声が震えている。気の強い姉のことだから、俺の前では泣いている姿を見せたくないのだろう。俺は椅子から立ち上がり、コーヒーを淹れるための湯を沸かすことで、姉の視界から離れた。


「俺には才能なんてないよ。あったら今、こんな風にふらふらしてないし」

「そんな訳ないでしょ。高校の時から歌作って、大学行かなくたって自分の力でお金稼いで頑張ってたじゃない。そういうの、才能がないと出来ないと思う」


 姉が『才能』と口にする度、周に言われた言葉を思い出す。あいつは本当に周りのことをよく見ていた。なら、今のあいつを一番近くで見て、理解してやるのに適しているのは誰なのか。


 真っ当で、温かくて、全力で支えてやれる正しい存在。

 それはきっと、俺じゃない。

 俺は周の家族にはなれない。

 頭の先までずぶずぶと欲に浸かって息が出来なくなるような人間じゃ、ダメなんだ。

 

「葉ちゃん」


 姉は台所にいる俺を振り返った。その目にはもう、涙は浮かんでいなかった。


「何」

「周くんがやってる仕事の手伝いって、まだかかりそう?」


 そうだった。周はウチに来る理由付けとして、俺のことを手伝っていると説明していた。


「いや……どうして」

「もうじき2学期が始まるでしょう。それまでにあの子と私たち夫婦で、とことん話をしようと思うの。今みたいに一日のほとんどをここで過ごしている状態だと時間が足りない気がして」


 今度は姉が俺に頭を下げる。


「勝手なことを言ってる自覚はある。だけどごめん。あの子を私に返して欲しい」


 すぐにでも、と姉は続けた。

 台所を満たすコーヒーの香り。

 8月が終わるまで、今日を入れてあと5日。


「8月いっぱいまで待ってもらうことは出来ないのかな」

「それじゃあ始業式に間に合わないじゃない」


 姉は、かつて俺に周を預けた時と同じことを言った。


「葉ちゃん、お願い」


 この弟にしてこの姉って感じだな。本当にひどい話だ。

 でも、このタイミングを逃せば、姉と周はこの先ずっと向き合うことはないかもしれない。その時々に応じて、表面だけ色を塗り変えることでやり過ごすような関係はとても悲しい。

 本来の親子としてあるべき姿に戻るべきだ。

 頭では理解しているのに、昨日の周の言葉が、声が、顔が、さっきからずっと「頷かないで」と訴えていた。

 黙り込んだ俺のことを、姉はじっと見ている。向こうも向こうで譲れないものがあるのだろう。沈黙を破ったのは俺だった。


「周と話をさせて欲しい」

「その必要、ある?」

「自分のことを知らないところで勝手にあれこれ決められたら、姉ちゃんだって嫌だろ」

「……それもそうね」


 外の雨は、恐らくまだ止んでいない。時計をチラリと見る。


「今日も周は来ると思うから、そこで話すよ」

「自分に有利な方に誘導しないわよね」

「そこ疑われるのはツラいんだけど」

「あんたに恋愛感情がある以上、公平に見ることが出来ないのは当たり前でしょ」


 そんな考えが出てくるということは、姉ちゃんは好き嫌いが絡めば考えが偏る人間なんだなという言葉は言わないでおく。

 姉は鞄を手に席を立つ。


「そろそろ行くわ」

「コーヒーは」

「遠慮しとく」


 玄関で靴を履き、ドアノブに手を掛けると、姉は最後に言った。


「分かってると思うけど、あの子に何かあった時、葉ちゃんは責任を取れる立場にないのよ。その辺のことをよく考えてね」


 パタンと扉が閉まる。

 あと1時間もしないうちに、周はやって来るだろう。どうしたものかと迷っている時点で既に揺らいでいることに気付き、俺は壁にもたれてうなだれた。


「あと5日だったのにな」


 せめて今日が雨じゃなかったら良かったのにと、俺は天気を恨んだ。

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