第32話 海津の襲来

「おーい。生きてるかー」

 

 体が揺さぶられている。何だよ、邪魔すんなよ。


「お前、空き缶並べすぎ。ボーリングでもする気かよ。ゴミ袋どこだ」


 ガサガサと誰かが何かを漁っている。ビニールの擦れる音に続いて、アルミ缶のぶつかり合う軽くて甲高い音が響く。うるさい。


「あーあー、ビールなんか吞んじゃって。苦さで誤魔化そうとでもしたのかよ。バカだな。いや本当、俺の周りバカばっかだな。おいそこのバカ、聞こえてんだろ。いい加減起きろ、カバ」


 床に転がっている俺の身体を踏んづけるような失礼なヤツは一人しかいない。

 海津かいづだ。


「……そこはバカじゃねぇのかよ」

「やっぱ聞こえてんじゃん」

「お前カバを舐めるなよ。あいつら、本気出したら時速50キロぐらい出るんだからな」

「ほんじゃ、本気も出さねぇで呑んでぐだぐだしてるだけのお前なんて、カバ以下じゃん。カバさん、こんなのと同列にしてごめんなさーい」

「……ムカつく」


 ぬるいフローリングの上で、寝返りを打つ。


「この不法侵入野郎が。鍵閉まってただろ」

「花さんから頼まれたんだよ」

「げ」

「『ようちゃんと全然連絡が取れないの。私が行けばいいんだろうけど、ちょっと今はあの子に合わせる顔が無くて。だから海津くん、お願い』」

「姉ちゃん、誰にでもお願いしてんな……」

「山根家さ、姉も弟も俺のこと何だと思ってんの?」

「それについては本当ごめん」

「まぁ俺もお前の様子見たかったし、ちょうどいっかと思ったから鍵もらって入っちった。こっちこそごめん」


 海津はゴミ袋の封を締めると、今度は掃除機をかけ始めた。ふおーんと稼働する音を聞きながら、何気なくスマホを見る。

 10月3日。

 あまねとコンビニで別れてから、1ヶ月以上経っていた。


「お前邪魔だから、ちょっと顔洗って来い」


 家主なのに足先で小突かれた。のそのそと立ち上がり、洗面所へ行く。


「……ひでぇな」


 中途半端に伸びた髭。

 黄色くくすんでむくんだ顔。

 とりあえず歯を磨き、顔を洗い、髭を剃ったら、ほんの少しだけマシになった気がした。とはいえ瞼は腫れぼったいし、どこもかしこも、身体の全てが怠い。

 リビングに戻ると、麦茶のペットボトルがテーブルに置かれていた。


「とりあえず水分摂れよ」


 ラベルを見る。水族館に行った日、周に渡したものと同じだった。たったそれだけのことなのに、俺の気持ちはひどく澱んだ。ペットボトルはスルーして、冷凍庫から取り出した保冷剤を目に当てる。

 冷たい。

 こんな感覚も久しぶりだった。


「さっき掃除がてらお前の仕事部屋入ったら、ホワイトボードが文字通りのホワイトボードで真っ白だったんだけどさ」


 俺が手を付けなかったペットボトルのフタを開け、海津が一口飲む。


「何してんの、お前」


 仕事が進んでいなくて怒っている訳ではない。むしろ、心配しているのが俺には分かる。海津が深刻な空気を出さないでいてくれることに逆に感謝した。お陰で今なら吐き出せそうだ。


「……書けないんだ」

「あ?」

「書いたら、本当に終わりになる」


 周の気配が消えたあの日、俺は帰ってからすぐマーカーを手に、ホワイトボードに向かった。腹の中に溜まって溢れそうになっている感情を言葉に置き換えて、アウトプットする。俯瞰するように遠くから自分を眺めて記録していく。脳内で辞書をめくって、この気持ちを表すのに最も適した単語を当てはめては吐き出し、並べ替えて語呂を整える。


 ブランクがあるとはいえ、これまで散々やってきたことじゃないか。

 書けよ、俺。

 書いて、きっちり終わらせるんだ。

 アイス。雨。雷。海。水族館。ウミガメ。

 周と過ごした日々の中で、歌詞に落とし込めそうな単語はいくつもある。全体の中に散りばめて世界観を構築すれば、それは自ずと周との恋愛をまとめ上げた歌詞になる。


 それで完成だ。

 そして、おしまい。

 

 頭では分かっている。なのに感情を納得させることが出来ない。心が伴わないから、手も動かない。

 何も書けない。

 2年前、海津に「辞めたい」と告げた時とは全く違う意味で書くことが出来なかった。


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