第7話 翻弄

07

「……そう、だけれど」

 名前を言い当てられ、人影――五条錫が警戒しながらそう言う。

 ここに……もともと宿泊予定のなかったビジネスホテルに彼女が来ているということは、やはり第四項対策室としての任務として僕の監視をしていたということに他ならない。

「時間が惜しいから単刀直入に言うわ。今すぐ五条沃太郎をここに召喚しなさい。近くで待機しているのでしょう?」

「それは――」

「――駆け引きをして無駄に時間を使う気はないの。セルシオ・シュタイナー教授が来る前に彼を呼びなさい。これは多次元時空保全委員会からの指令として成立します。第四項対策室に拒否する権限はありません」

 厳然と言いきる未来の燐に、五条錫はまだ不審げだった。

「……貴女が多次元時空保全委員会の人間だと示せるものが……あるのですか?」

 それはきっと五条錫さんの必至の抵抗だったのだろう。しかし、未来の燐は一顧だにしない。

「私は時間が惜しいと、そう言ったはずだけれど」

「……」

「仮に私が委員会の名を騙っていたとして、意味がありますか? セルシオ・シュタイナー教授が葉巻和彦を殺そうとしている事実は変わりません。彼の監視だけでなく保護もまた、第四項対策室の任務だと認識していますが」

「本当なのですか?」

 僕もびっくりしたけれど、「セルシオ・シュタイナー教授が葉巻和彦を殺そうとしている」なんていう未来の燐の言葉に、さすがの錫さんも疑念を隠せないようだ。

「……セルシオ・シュタイナー教授は委員会と協調関係にあるはずです。だからこそ沃太郎を研究室に所属させたのですし、委員会から多額の援助を受けて実験を推進させようとしています。なぜ彼が葉巻和彦を殺そうなどと? 我々と敵対する理由など何もないはずです」

「……」

「……」

 錫さんの疑問ももっともと言える。だけど、未来の燐は冷たい視線を向けるだけ。答えるつもりはないみたいだ。

 そんな視線に錫さんが動じる様子はなかったけれど、少しの沈黙のあと、ため息をついて携帯端末を取り出した。

「……トモ、貴方もこっちに来て。詳細は分からないけれど、セルシオ・シュタイナー教授が葉巻和彦を殺そうとしているそうよ。……ええ、ええ……それはそうだけれど、私にも分からないのよ。……ええ、お願いね」

 そう言ってから携帯端末をしまい、錫さんがこちらを向く。

「これでいいかしら。……でも、沃太郎は天使とはいえ車椅子なのよ。そこまで戦えるわけではないわ」

「牽制してくれれば十分よ。戦うのは私だから」

「?」

 未来の燐だと――彼女が天使だと――知らない錫さんは、どこかいぶかしげな表情を浮かべる。しかし、錫さんには目もくれず、未来の燐は僕に向き直った。

「和彦さん。今の私……燐を起こしてきてください。ここから脱出しなくてはなりません」

「でも――」

「――お願いです。説明はあとからあの方がしてくれるはずです。だから今は……私を信じて欲しいんです」

 あの方?

 脱出って、どうやって?

 疑念だらけだったが、未来の燐の真剣な表情に、僕は訊き返せずに質問を飲み込む。未来の燐が、僕の安全を本当に心配しているのだと分かったからだ。それなら、疑問ばかりを口にしなくても、従っていい気がする。

 僕はただうなずいて、ちらりと錫さんを見てから部屋に戻る。暗い上に少し離れていてよく分からなかったが、錫さんは不満を隠すつもりのない態度のように見えた。

 部屋に戻ると、ベッドの上にはまだ無防備な寝顔をさらす今の燐がいる。

 部屋の電気を点けて、彼女に近づく。

「……燐」

「……」

「燐。起きて」

「ん、んん」

 ずいぶんよく眠っているみたいだ。未来の燐の天使の力にも気づかなかったみたいだし、図太い神経というかなんというか……。

「起きてってば」

「んー……」

 彼女の肩をゆすってみるが、寝言ばかりで起きる気配がない。

 ほほを叩くか。いや、それはさすがにひどいような……。

「ねぇ」

 ああもう、いったいどうしたら――。

「ううん……」

 と思った矢先、燐が気だるそうに右手をシーツから出し、まぶたをこする。

「あ……かじゅひこさん……」

 とろんとした瞳でこちらを見て、そうつぶやく燐。

 ダメだ。まだ寝ぼけたままだ。

「燐。早く起きて。急いでここら逃げないといけないって……」

「かず……ひこさん。わ、たし……かずひこさんが――」

 寝ぼけたまま起き上がろうとして……燐は僕の方へと倒れこんでくる。

「わっ、え、うわわっ!」

 受けとめる用意なんてしているわけがなかった僕は、変な体勢で燐を受けとめようとして、できるはずもなくそのままどたばたと音も立てて二人で床に倒れる。

 僕が下、燐が上だ。

「ちょっと、燐!」

「ふぁい」

 少し顔を上げて燐がほほ笑む。

 まだ覚醒しきっていないからか、それとも単に暗いからか、妙に妖艶な表情でどきりとしてしまう。

「あの――」

「――私、思うんです。和彦さんを幸せにできたら、きっと未来もよくなるんだって……世界も崩壊しないんだって。だから……」

 そこまで言って、彼女は力を失い、またくたりと倒れこんでくる。

「……」

 僕は硬直したまま動けなかった。

 燐は僕の胸に頭を落とし、やがて安らかな寝息を立てはじめる。単に寝ぼけていただけで、ちっとも目が覚めてはいなかったようだ。

 頼むよ……。

「燐。起きて――」

「――さすがに、十代なら油断している時もあるか」

 僕と燐しかいないはずのホテルの室内で、聞き覚えのない男の声が不意に響いた。


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