第3話 跡地
03
そこでようやく燐は口をつぐみ、静かにさら地を眺めた。
彼女の横顔からはどんな感情も読み取れない。
ここにはその凄惨な光景などなにも残されていない。
山林のなかにぽかりと空いた空白は、その破壊跡らしき砂利からかろうじて人の関与をうかがわせるものの、狂気に染まった研究や、その災害の爪痕までは見つけられない。
ただ、乾いた風がなでていくだけだ。
「……そうして設立されたのが、内閣府多次元時空保全委員会という非公式の政府直轄組織です」
「……? ここの崩壊後、なのか?」
それまでは黙って聞いていたけれど、僕はそこで声をあげ、燐に尋ねる。
彼女の言葉通りなら、この遺伝子研究所があった頃には内閣府多次元時空保全委員会はまだ存在していなかったということになる。ここは天使の研究をしていた場所だというのに。
「そうです。ここで轟銀が暴走したからこそ、政府は天使の存在の重大さに気づきました。ちゃんと解析し、コントロールしなければならないと考えたのです。遺伝子研究所は国の補助は受けてようですが、民間の組織だったそうです。情報がほとんど残っていないのも、まだ委員会の管轄下になかったからだ……と」
「そうか……」
燐の説明は理屈だっていて、特に反論できるところもない。
けれどどこか、うまく説明できない違和感があった。
彼女に対してではない。なにか、遺伝子研究所や多次元時空保全委員会の成立に、納得のいかないもやもやを感じる……というか、妙な意図を感じる。けれど、その正体までははっきりしない。そもそも委員会自体が非公式の組織なわけで、違和感などあって当たり前のような気もする。
「内閣府多次元時空保全委員会。その実態は、下部組織という扱いである第四項対策室の私たちにもほとんど分かっていません」
「なんだそれ。上司とかはいるんだろ?」
しかし、燐は首を横に振る。
「こちらへの指示、連絡、こちらからの確認や申請も全てメールや文章です。上席の姿も声も……見ることも聞くことも叶いません。非公式の組織であればこそ、内部の人間ですら実態を把握できないようになっているんです」
「……」
「委員会に、私たち以外に誰が所属しているのか。本部がどこにあるのか。他に私たちと同じような対策室のような部署があるのか……委員会は倫理に反することはしていないという話ですが、錫姉さまははっきりと委員会を疑いの目で見ています」
「つまり?」
「……遺伝子研究所と同様の人体実験をしているのではないか、という疑いです」
「……」
燐は暗い眼差しで眼前の光景を見つめている。
燐も五条錫と同じように、現在の委員会が人体実験をやっていると考えているのだろうと容易に察せられた。
多次元時空保全委員会。僕に言わせれば胡散臭い組織だ。
燐たち第四項対策室のみんなは、そこまで疑っているというのに、どうして従っていられるんだろう。
そう思っていると、燐は僕を見てひどく悲しそうな笑みを浮かべる。
「……和彦さんの考えていること、分かると思います。でも……私たちには、委員会に従う他に選択肢が無いんです」
「でも――」
「――委員会が第四項対策室を作らなければ、私たちには戸籍も存在しませんでした。私たちが委員会に従うことと引き換えに、委員会は私たちの生活を保障しているんです」
「……」
「遺伝子研究所崩壊後の私たちは、控えめに言って社会常識など欠片もない子供でした。私たちは、天使の力が一般に認知されていない特殊能力だということすら理解できていなかったんです。委員会の庇護がなければ、私たちは遠からず大したことのない理由で命を落としていたでしょう」
「……それでも、今ならどうとでもできるだろう? 燐に五条さん、僕を合わせれば三人も天使がいる。本気を出せば、誰にだろうと止められない」
僕の言葉に燐は目を丸くして、それから笑顔を浮かべる。
「ありがとうございます。でも、私たちは、委員会に反抗しようと思ってはいないんですよ。確かに委員会には多くの疑問や謎があり、納得できないこともたまにありますけれど」
「なんで……そんな」
「彼らの目的が、天使による被害、災害を防ぐことだからです。それが覆らない限り、委員会の目的と私たち第四項対策室の思惑は一致しているんです」
「それ、は……」
反論できずに黙る。
「私たちは……遺伝子研究所で轟銀が暴走するさまをこの目で見ていました。死なずに済んだのは……沃太郎兄さまの力もありましたけれど、ほとんど運でした。あの災害を繰り返してはいけないと……そんな思いが私たちにあるから」
そう言って、燐はうつむく。
「……結局、私たちには神稜地区局部地震を防ぐことができませんでしたけれど」
大学のグラウンドで吹き荒れる力。
高校の屋上から猛威を振るう銀の“炎の剣”。
僕にとって悪夢とさえ言える――そして二度経験した――神稜地区局部地震。僕にとってのそれは、燐にとっては遺伝子研究所の崩壊なのだ。
多次元時空保全委員会の目的がそれの再発防止なのだとしたら、不満があったとしても……僕も逆らいはしないだろう。燐の言う通りだ。
僕は黙ったままさら地に手をかざし、まぶたを閉じる。
そして、空間の深さを含めた深淵を見つめなおし、両目を開く。
第四の次元を知覚し、蒼く染まる視界。
「……」
そのままゆらゆらと揺らめく空間の深さを感覚する。が、そこは思っていたよりは安定していた。
過去、天使の力により災害の起きた場所だ。もっと空間の……不安定さが残っていると思っていたのに。
「思ったより……安定してるな」
僕はまぶたを閉じて、蒼い視界を元の三次元空間へと戻す。
「……そう、ですね」
横を見ると、いつのまにか燐も瞳を紅く輝かせ、さら地を眺めていた。僕の意図を悟り、同様に空間の歪みを探していたのだろう。
僕が蒼い視界を見ていたときも、燐と同じように瞳が光っていたはずだ。ただし、彼女のような紅い光ではなく、蒼い光で。ということは、僕の視界が蒼くなっていたように、彼女の視界は紅い光で満たされているのか。
燐の紅い光。
僕の蒼い光。
次元光放射、と呼ぶらしい。
両者にはどんな違いがあるのだろう。僕が蒼い視界の中で空間の深さを認識できるとしたら、彼女は紅い視界でなにを認識しているのか。
「……仕方がない。今日は帰ろう」
「わかりました」
いろんな疑問を、僕は結局燐に問わずにそう声をかける。
聞いたって理解できないことが分かっていたからだ。
僕が見ているこの蒼い視界でさえ、誰かにうまく説明できやしない。絵に描いて説明するにも、四次元空間を二次元のイラストに落とし込むことなんて僕にはできない。できたとしても、よほどの天才じゃないと無理なんじゃないか。
僕の感覚での認識と彼女の感覚での認識を話し合っても、お互いに混乱するだけで理解できずに終わるのが目に見えている。
僕らはさら地を背にして、山林へと引き返そうとする。
「……そうだった。またこの道を通るんだ……」
登りの苦労を思い出して、思わず愚痴をこぼしてしまった。
「少し休憩してからにしましょうか?」
「いや、行こう。もう三時だし、休憩してたら明るいうちに山から降りられなくなる」
「それはそうですけど……」
燐は心配そうに僕を眺める。
「無理したら、ダメですよ?」
「……いや、山で一泊なんてしてられないし、そんなリスクを考えたら多少は無理しないと」
「むぅぅ」
少し笑って強がって見せる僕に、燐は少しほほを膨らませる。が、結局否定まではしなかった。
……その強がりを後悔したのは、下山開始から一時間後のことだった。
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